<早々と来年の冬季五輪でデジタル人民元がデビュー。あらゆる業種の構造に分散化技術を導入し他国に先駆ける> 暑さもウイルス感染も真っ盛りの時期に始まったシュールな東京五輪はともかく、本来ならオリンピックは選手にとっても開催国にとっても最高の晴れ舞台だ。思い返せば2008年の夏、世界金融危機の直前に開かれた北京五輪の開会式では、中国古来の打楽器を総勢2008人の奏者が一糸乱れずに打ち鳴らし、高らかに現代中国の復権を告げた。 そして半年後、今度は北京で冬のオリンピックが開催される。もちろん中国政府はすごいサプライズを用意している。世界初の官製暗号資産(仮想通貨)、デジタル人民元(e-CNY)の世界デビューだ。 世界初といっても、一般の消費者が戸惑うことはなさそうだ。価値は既存の人民元と同じだし、使い方は既存のキャッシュレス決済と大差ない。端末画面をタップ、スワイプ、またはQRコードを読み込むだけでいい。 しかし、もともと国家の介入を排除するために考案された仮想通貨を、国家が発行・管理するのは想定外の展開。購買行動や金融取引に関するプライバシーの問題など、未解決の問題は多い。 もっと深刻なのは、国境を越えた資金移動に及ぼす影響だろう。果たして官製デジタル人民元は、米ドルの支配する国際金融システムに風穴を開けるのか。香港を拠点とする金融アナリストのポーリン・ルーンに言わせると、最も注目したいのは誰が、どの程度まで「資本へのアクセスと資本の動きを支配」することになるかだ。 きっかけは08年の金融危機 ただし、そうした影響は中国政府が巨大な「赤いカーテン」の裾からのぞかせる小さな爪先程度の意味しか持たない。カーテンの奥に潜んでいるのは、いわゆるブロックチェーン(分散型台帳)の技術を用いて国家と経済の情報インフラをそっくり作り直すという壮大な野望だ。 言い換えれば、目指すは次世代インターネットへの一番乗り。e-CNYで未踏のデジタル世界に踏み出し、そこにブロックチェーンの鉄路を敷設しようということだ。 この野望が芽生えたのは、2008年の世界金融危機の時期だ。アメリカの無節操な金融政策のせいで世界中が景気後退に陥るのを見て、こんな脆弱なシステムはもうごめんだと、中国側は思った。 当時の国家主席・胡錦濤(フー・チンタオ)はG20諸国の首脳に「国際金融システムの多様化を着実に促進」しようと呼び掛けたが、各国の反応は鈍かった。 そこで中国は、米欧主導の国際金融システムに対抗する仕組みの構築に乗り出した。アメリカが経済制裁でイランの資金調達源を断とうとすると、中国は国境を越えた資金移動の独自ルートづくりに力を入れ始めた。 ===== 内モンゴルにあるビットコインのマイニング施設 QILAI SHENーBLOOMBERG/GETTY IMAGES その頃には、国内的にも金融政策の大胆な見直しを迫られていた。例えば、銀行口座を持たない国民が4億人もいた。だから彼らを貧困から脱却させる妙案が欲しかった。 08年には国内ベンチャーのアリババが、スマホ普及の波に乗って携帯端末による電子決済サービスを開始した。しかし民間企業に任せていたら国家による監視の目は行き届かず、資金の動きがつかめなくなる。それは困る。 一方で12年前後に、当局は内モンゴルなどの僻地で電力需要が激増していることに気付いた。高性能なコンピューターと巨大なサーバーを備えた倉庫のような施設が、あちこちでフル稼働していた。 それは仮想通貨ビットコイン(中国では比特帀〔ビタビ〕と呼ばれる)のマイニング(採掘)工場だった。数年前のピーク時には、世界のビットコインの推定95%が中国国内で「採掘」されていたという。 この仮想通貨は銀行にも国家にもつながっていない。全ての取引は、ネットワークに参加する全コンピューターに伝えられ、認証され、分散型台帳(ブロック)の長大な鎖(チェーン)として永久に記録される。 その脅威と可能性を、中国政府は直ちに理解した。中国人民銀行は14年に官製ビットコインの可能性を探り始めた。国内では、既に物理的な紙幣の流通が減っていた。 昨年にはデジタル人民元の実証実験 「多くの国の政府がまだビットコインの基本も知らない頃から、中国政府は『採掘』作業のセキュリティー確保に取り組んでいた」と言うのは、北京を拠点とするシノ・グローバル・キャピタルの副社長イアン・ウィットコップ。「それがブロックチェーンと暗号資産のエコシステムの発達につながった」 昨年10月には、デジタル人民元の大規模実証実験の準備が整った。抽選で50万人以上に計1億5000万デジタル人民元(約25億円)が配布され、約7万の実店舗とネット通販で使えることになった。 その半年後には誰にでも参加できる形の実証実験も行われた。ついにデジタル人民元が、国家の監視の下で実社会に放たれたのだ。 新しい通貨の導入は、五輪の開会式以上の国家プロジェクトだ。だから慎重にも慎重を期す必要があったと、シドニーのロウイ国際政策研究所で中国経済と貿易政策を研究するピーター・ツァイは言う。 「間違いが起きたら多大な犠牲を払うことになる。金融、銀行、決済システム、金融政策に与える総合的な影響を明確に把握している人は、まだ中国にもいない」 ===== この間、中国のハイテク分野の取り組みには失敗も成功もあった。高性能な半導体の生産では、いまだ自給体制も確立できていない。5Gの無線通信では先行したが、人工知能(AI)のような戦略的価値が大きい分野では米欧諸国に後れを取っている。 だがブロックチェーンに関しては、重要な技術でリードしているようだ。19年には習近平(シー・チンピン)国家主席が、ブロックチェーンは「中国のデジタル変革の次の波を導く」だろうと豪語した。 そして何千もの企業が消費者金融から国際輸送、サプライチェーンに至るまで、あらゆる分野でブロックチェーン事業を開始したと報じられている。 拡大の勢いは止まらないとウィットコップは言う。「中国の独走態勢だ。他の国をはるかに引き離している」 最近のマッキンゼーの報告によると、これらのプロジェクトは既に世界で最も高度なレベルにある中国のデジタル・エコシステムにさらなる変化をもたらしている。中国には9億9000万のネットユーザーと世界の有望スタートアップ企業の4分の1以上が存在する。 10年後はすべての取引がブロックチェーンで その1つ、杭州に拠点を置く金融サービス大手アント・グループは輸送、保険請求処理、寄付など50以上の分野で、ブロックチェーン・ベースの分散型アプリを提供している。 中国最大のネット検索エンジン百度(バイドゥ)は、国内の「インターネット法廷」で3500万件の電子証拠を扱うアプリなど、20の分散型アプリを運営している。中国平安保険も、公共事業への融資に分散型アプリを利用している。 ブロックチェーンの最前線で市場開拓に励むのは民間企業だけではない。中国工商銀行のある部門は、個人商店や企業向けの分散型アプリを開発した。 「ブロックチェーンは、技術と社会の機能を向上させる」と言うのは、紅枣科技(レッド・デート・テクノロジー)の何亦凡(ホー・イーファン)CEOだ。 「世界中の全てのITシステムが1つの部屋に集まったかのように情報伝達できる」。10年後にはあらゆる取引がブロックチェーン・ベースになると強気の予測もしている。 ブロックチェーンの現状は93年頃のインターネットに似ていると何は言う。当時、ほとんどの企業にはインターネット(そもそも米国防総省が開発し、民生転用を許したプロジェクトだ)の参入コストを負担する余裕がなかった。 ===== 20年4月、中国政府はついにブロックチェーン時代への一歩を踏み出した。ブロックチェーン・サービスネットワーク(BSN)を立ち上げ、紅枣科技に運営を委ねたのだ。BSNは民間企業、特に中小企業が互換性と莫大なコストという2つの参入障壁を乗り越えるために使えるプラットフォームだ。 「全ては構築済みだ。利用者は接続してスマート・コントラクト(自動取引)を実行するだけでいい」と、何は言う。 設立から1年で、このBSNは中国全土に120カ所、さらにヨハネスブルク、北カリフォルニア、パリ、サンパウロ、シンガポール、シドニー、東京にも拠点を持ち、今や2万人のユーザーと2500以上のプロジェクトを抱えている。 例えば北京の新興企業「鏈平方」はBSNベースのアプリを開発し、5000以上の中小企業の円滑な資金調達を可能にした。同社の最高技術責任者・李明(リー・ミン)によれば、BSNは中国政府の基準に沿っているから使いやすく、顧客も見つけやすい。 紅枣科技の何は、若者がブロックチェーンを自在に使いこなす日は近いと信じている。そのために高校生対象のプログラミング・コンテストも行っている。「ブロックチェーンは若者の基本スキルであるべき」だと何は言う。 ちなみに紅枣科技は6月に公開市場で資金調達を行い、サウジアラビアやスイス、タイの大口投資家から総額3000万ドルを獲得している。