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「このままでは死んでしまう。助けなきゃ」

【画像】「誰でもよかった」と供述した對馬容疑者

 目の前には血塗れの若い女性。無我夢中、救護に当たったのが、20代の看護師・A子さんだ。

 小田急線の長閑な車窓風景が一変したのは、8月6日夜8時半頃。對馬(つしま)悠介容疑者(36)が刃渡り約20?の牛刀を取り出し、座席の端に座る20歳の女子大生の胸部や背中、腕など7カ所を切りつけたのだ。

「通り魔!」「犯人が!」すし詰めの車内に響く声

 その夜、A子さんもまた乗り慣れた新宿行きの車内にいた。成城学園前駅を過ぎた頃、突然、後方車両から何十人もの人が走って迫ってくるのを目にした。

 A子さんが振り返る。

「喩えが悪いんですが……、『進撃の巨人』の、巨人から逃げる人。本当にそんな感じの勢いで。私も訳が分からず逃げました。後ろを振り返っても何も見えない。『通り魔!』『犯人が!』と、すし詰めの車内に響く声で初めて認識しました。事件が起きたんだ、って」

 先頭車両に辿り着いた時、目に入ったのが、被害者となった女子大生だった。左半身を血塗れにし、右腕で左腕を隠していた。

「誰か布持ってる人いますか! 私看護師です!」

「どうしましたか? 大丈夫ですか?」

「走って、逃げて、来た」

 微かな声、顔も唇も真っ白だ。命の危険を感じ、気づけば咄嗟に叫んでいた。

「誰か布持ってる人いますか! 私看護師です!」

 人混みから差し出されたスカーフを受け取り、胸部に巻き付けた。犯人がまだ近くにいるかもしれない――そんな恐怖も忘れるほど必死だった。

「あまりの出血で、どこからかも分からないほどで。立ったままでは血圧が下がるので、座席に寝かせ、鞄を置き足を上げました。腕からも血が流れてくるのが見えたので、素手で圧迫止血して。もちろん、感染症のリスクもゼロではない。一瞬、躊躇しましたが、咄嗟に出た行動でした。右手で止血しながら、左手で脈をとると、とても弱かった。これはちゃんと止血しないと危ないと思って、『医療者の方いますか!』と叫びながら、協力して下さった乗客の方にはとにかく布を集めてもらいました」

「頭を踏まれた」車内はパニック状態

 救護の最中、助けを求めて来た別の負傷者もいた。

「被害女性と同じ車両に乗っていた男性で、頭から血を流していました。『逃げる途中で転んで頭を踏まれた』と。車内はそれほどパニック状態だった。脈は正常だったので、安静を保てる姿勢を伝えました」

 男性の様子を見つつ、再び女子大生の傍に戻ったA子さん。「息が苦しい」と意識が朦朧とする彼女の手を握り、声を掛け続けた。

「大丈夫だからね、頑張ってね。深呼吸してね」


負傷者を乗せたストレッチャーを運ぶ救急隊員

 夜9時過ぎ、救急隊が到着すると、急激な疲労感が襲ってきた。搬送される女性を見送り、誘導され車両を降りる途中目にしたのは、凄惨な犯行現場だった。

「柄の折れた、血の付いた包丁が床に落ちていた。通路も血塗れでした。乗客の携帯や定期、鞄や傘も床に散らばっていて。こんなに酷かったんだって……」

「被害女性のことを、ずっとずっと思っています」

 近くのクリニックで消毒をして着替え、知人の付き添いで帰宅。夢と現の境で持てずにいた実感は日を追うごとに恐怖と化し、次第にA子さんを追い詰めた。

「その日は一睡もできませんでした。翌朝のニュースで自分の声の入った動画が流れて、『私、居たんだ』って。それからも『サラダ油で燃やそうとした』といった供述が報じられるたびに、『殺されそうになっていたんだ』と怖くて悲しくて。眠れない、食欲もない。勤務中でも涙が出て……」

 A子さんが取材に応じたのは、せめて自分の言葉が、被害者に寄り添う報道になれば、との思いからだ。

「もし公共交通機関に救護用の手袋や防護服が常備されたら、コロナ禍でも医療者が安心して行動できるかもと思いました。何より被害女性のことを、ずっとずっと思っています。傷が治っても、心の傷は大丈夫か、とか……。力になれることがあったら、何でも協力してあげたいです」

 気丈に振る舞うA子さんだが、しばらく仕事を休むという。「人を殺せなくて悔しい」と身勝手な供述を繰り返す對馬容疑者は近く、殺人未遂の罪で起訴される。

(「週刊文春」編集部/週刊文春 2021年9月2日号)