イタリア・ピアッジオ社が生産するスクーター・ベスパ。1946年の初リリース以来、2021年で生誕75周年を迎えますが、これまでに世界114か国で販売、ライセンス生産をされていることから、「世界で一番有名なスクーター」として知られています。
映画「ローマの休日」(1953年)で、主演のオードリー・ヘプバーンがまたがり、日本では名ドラマ「探偵物語」(1979年)で、主演の松田優作が愛用。また、イギリスの1950〜1960年代のモッズカルチャーアイテムとして、その造形とカルチャーとの親和性から「オシャレなバイク」として今もなお根強い支持を得ています。そこで、ベスパ75周年を迎えた今、ピアッジオグループ・ジャパンPR 河野僚太さんにその歴史と合わせて、知られざる逸話を聞きました。
航空技術を反映させながら「スカートでも乗れる」斬新なモビリティだった!
--まず、イタリア・ピアッジオ社が製造・販売するスクーター、ベスパの成り立ちからお聞かせください。
河野僚太さん(以下、河野):そもそもピアッジオ自体は、1886年創業で船の建具などを作る会社でした。そこから発展し鉄道車両を作ったり、第一次世界大戦では飛行機も製造するようになりました。第二次世界大戦の頃になると、イタリアを代表する飛行機メーカーに飛躍しましたが、敗戦を迎えます。
戦後、敗戦国の工業メーカー・ピアッジオも再出発を図ることになったわけですが、今風の言葉で言えば「新しいモビリティを提案していきたい」という思いから二輪車の製造を考えました。しかし、戦後の貧しい時代です。「多くの人に乗ってもらえるような庶民的なモビリティを」という思いからベスパというスクーターにたどり着いたようです。
--ベスパ以前の時代には「スクーター」という乗り物はあったのでしょうか。
河野:あったと聞いています。もともとのスクーターの起源は、戦時中、落下傘のパラシュート部隊が敵地に降りた際に、その場で移動するための組み立て式のエンジン付きバイクだったようです。
そういった従来のスクーターから発想を得て開発したのがベスパですが、随所に航空技術が取り入れられています。まず、ボディはスチールモノコックボディというもので、ボディそのものがフレーム構造になっています。
――従来の二輪車は、パイプフレームがベースに作られ、その上にボディが乗りますが、ベスパの場合はボディ自体がフレームになっていると。
河野:そうです。また、フロントサスペンションが飛行機の着陸装置であるランディングギアの構造と同じで、通常の二輪車のように2本でタイヤを支えるのではなく、片側のみで支えています。なぜこのような構造にしているかと言うと、当時のイタリアは道路状況が悪く、よくパンクすることからタイヤ交換をしやすくするためだったそうです。
さらに、エンジンとリアタイヤをユニットにすることで、乗車する人に油などが飛んでこないように工夫しました。これが後のスクーター全般に用いられる構造の礎となったもので、革命的な開発だったと考えています。
旧式ベスパはギアチェンジを手で行う……その理由とは?
--ベスパは2000年代の大幅リニューアルまで、大半のモデルがギア式、しかも左手でギアをチェンジさせる独特の機構でした。なぜ、このような機構になったのでしょうか。
河野:構造上の理由もあったはずですが、やはり「女性でもギアチェンジができる」ということがあったようです。通常、ギア付きの二輪車は、足でギアチェンジをするわけですが、女性がスカートを着て、ヒールを履いていた場合にギアチェンジができません。このことから「ギアチェンジは足ではなく手でやろう」という形になったと聞いています。
デザインの良さだけでなく、機構自体の評価が高まった時代
――ベスパの誕生が1946年。それから7年後の1953年には映画「ローマの休日」に採用されて世界中に存在が知れ渡たり、モビリティそのものの評価も高まったそうですね。
河野:はい。1950年代には、ライセンス生産を行っていたフランスのモデルを転じた軍用ベスパなどもありました。同じく1950年代、イタリアで6日間ぶっ通しでエンデューロ(未舗装)でのラリーを行うレースでオフロードバイクに混ざってベスパも参加し、優勝しました。
また、1980年にはパリ・ダカールにフランスのプライベートチームが4台のベスパで参加し、そのうち1台が完走を果たしたりと、機構面での評価を得てきました。
――それだけ頑丈で汎用性の高いスクーターだったとも言えそうですね。
河野:独特の機構ではありますが、構造がシンプルでメインテナンスをしやすいところが大きな魅力で世界中に広まっていったのだと個人的には思います。
――ベスパは時代を経て進化を遂げていきます。特に「庶民の足」だったところに、スピードを求めるようなモデル、あるいは小型モデルなども続々と登場します。この経緯はなんだったのですか?
河野:スポーツモデルが出始めたのは1960年代ですが、ベスパというモビリティが浸透したこと、そしてレースなども盛んになった影響だと思います。また、同じ1960年代には、50ccの小型モデルが誕生しましたが、これは当時のイタリアで、免許がなくても14歳から50ccバイクに乗ることができたからだと聞いています。日本で言うところの原付のカテゴリーですが、この50ccのベスパ誕生によって、販売台数が伸び、若者文化と合わせてさらに浸透していったようです。
ベスパの長い歴史の中で、大転換期だった1996年
――以降、世界114か国で販売またはライセンス生産されるなど、世界中にベスパが広まっていきました。その中の50年間は2サイクルエンジンを採用していましたが、1996年はオートマチックの4サイクルモデルに。ガラッと印象が変わりました。
河野:たしかにそれまでのベスパは、デザイントレンドを反映したリニューアルは何度か行ってきましたが、1996年は大きな転換期でした。
その理由は、スクーターはオートマチックが当たり前の時代になっていたことがあります。1984年にPK125オートマティカというオートマチックモデルも出していますが、この1996年にCVTのトランスミッションの4サイクルエンジンを採用して、全体的なリニューアルを行ったというわけです。ただ、当初のベスパならではの特徴であるスチールモノコックボディ、フロント片持ち、エンジンとリアタイヤのユニットなどは継承しています。
現在の日本市場にあるベスパは、イタリア製ではない!?
――現在、日本国内に輸入されているベスパはイタリア製のものでしょうか? 一時、日本でのベスパはイタリア製と台湾製が混在している時代もあったようですが。
河野:現在我々が輸入しているのは、実はベトナム製のベスパです。ファンの方によっては「イタリアじゃないとイヤだ」と言う方もいますが、実はベトナム工場のほうがシステムが新しく、また民族性なのか真面目なので、完成度はイタリアよりも上なんです。また、日本との距離もイタリアに比べれば近いため、タイムリーに輸入することができます。この点、弊社としては「メリットしかない」と考え輸入していますので、どうか安心してお買い求めいただきたいですね。
イタリア本国ではすでに電動ベスパも登場!?
――また、近年は四輪・二輪ともガソリン車廃止が叫ばれており、電動モビリティが注目を浴びています。今年で75周年を迎えたベスパですが、電動化の取り組みなども意識されているのでしょうか。
河野:実はイタリア本国では、電動ベスパがすでに発売しています。日本のカテゴリーに合わないため、現時点では日本での販売はありませんが、EV化ももちろん視野に入れて、時代ごとの基準やニーズに合わせながら進化していっています。
現在、日本に輸入し販売しているベスパは正直を言うと、当初の輸入台数よりも注文のほうが多く、台数が足りていない状態です。これだけの支持をいただいている理由はやはりベスパが常に「変わり続けるべきもの」「変えてはならないもの」のバランスを取りながら進化していったからだと自負しています。この姿勢は今後も変わらないと思います。
環境も含め、時代ごとに様々なニーズに応えながら、いつも多くの人にとっての足となれるようなモビリティであり続けてほしいと個人的には思っています。
ベスパの生誕75周年の知られざる歴史。一見すれば「ずっと変わらない」ことが魅力のベスパのようにも見えますが、実は静かに進化し続けていたことが分かりました。
また、ピアッジオ・ジャパンではこの75周年を記念した2モデルを販売予定。この試乗レポートも引き続き後編で行う予定です。どうぞお楽しみに!
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