業務のDX(デジタルトランスフォーメーション)を政府が推し進めている。とはいえ、エッセンシャルワークと呼ばれる職種、つまり人々が日常生活を送る上で必要不可欠とされている医療・福祉や保育、小売業、運輸・物流などに関しては、重要度が高いのにDXが進まないというジレンマが生じている。
エッセンシャルワークの主な7つの職種の中に含まれていないとはいえ、農業も生活基盤に不可欠な仕事であることは疑念の余地がない。にもかかわらず、農業は最もDXが進んでいない分野の1つだ。
農業をロボットで変えようと起業した人がいる。トクイテン代表取締役豊吉隆一郎氏と共同創業者で取締役の森裕紀氏だ。高専時代にロボット研究に携わり、2011年にクラウド請求管理サービス「Misoca」を立ち上げた豊吉氏が、なぜ農業という分野を選んだのか、考える農業の未来などについて、豊吉氏と森裕紀氏に話を聞いた。
わずかなITツールで大きなインパクトを与えられる農業というフィールド
豊吉氏は、工業高等専門学校卒業後、Webシステム開発で独立し、2011年には後に20万事業者以上が登録するクラウド請求管理サービス「Misoca」を立ち上げた。
会社を売却した後もしばらくは同社内にとどまっていたが2018年11月に代表を退任し、2021年8月にロボット開発の知識を活かした有機農業を事業とする「トクイテン」を森氏と共同創業した。
ここで、疑問が生じる。なぜオフィスのバックヤード業務の効率化を進めるMisocaから農業へとシフトしたのだろうか。
実は、豊吉氏の実家は兼業農家。農業に幼い頃から親しんでいたという背景がある。農業に興味を持っており、家庭菜園まで行っていたところ、知り合いの農家の灌漑(かんがい、水やりのこと)システム開発に携わる機会を得たという。
「スマホから遠隔操作で畑に水やりをするシステムを作りました」と豊吉氏。「わずか数万円という費用に、自分の得意なプログラミング技術を使っただけなのに、『これで旅行にも行きやすくなる』ととても喜んでもらえた」と振り返る。
「これだけのことで、ここまでインパクトがあるのか」と、農業にITを持ち込むことの影響力の大きさに驚いた瞬間だった。
これほどまでに感動をもって受け入れられた理由を「農業分野ではDXが遅れているという現状がある」と豊吉氏は分析する。
「製造業なら、24時間、休まず人間以上のスピードでロボットが働けば、時間ごとの生産性は上がる。ソフトウェアなら、やはり人間が行う以上のスピードで正確に計算し続けられる。
しかし、農作物の成長スピードは、ロボットが入っても変わらない。そのため、コストをかけても無駄、という考え方があるのだろう」と豊吉氏はいう。
灌漑システム開発で、何度もその農家を訪れるうちに、成長していく作物を情を持って見つめるようになり、農業について真剣に学ぶため県の農業大学校1年コースに入学し、農業者育成支援検研修を修了。農業の素晴らしさと大変さを身をもって感じたという。
「20種類ほどの農作物を育てて収穫したが、在籍していた2020年の夏は特に暑かったため、熱中症で倒れてしまう人も出るほど過酷な状況だった。また、有機野菜は管理が大変で、そのぶん価格も高いのが現状。これを自動化できれば、大変な思いをすることなく農業を行え、有機野菜も一般化するのでは……との思いが強まった」。
そこで、高専時代の同級生であり、現在は早稲田大学次世代ロボット研究機構で主任研究員・研究院准教授となっている森氏と共同でトクイテンを立ち上げたのだ。
社名に込められているもの
それにしても、農業のスタートアップ企業名に「トクイテン」を選んだのはなぜだろうか。一体何の「特異点」なのだろう。
「それには3つの意味が込められている」というのは森氏だ。「ロボットの勉強会をしたときに、通常とは異なる(特異な)取り扱いをしなければならない場合のことを特異点というよね、という数学的な話が出た。自分たちがこれから挑む農業は、今までとは違うやり方で行うことが決まっていたという意味が1つ」と解説する。
続けて「宇宙論やロボット工学ではある種の状態が特異点に近づくと劇的に加速し変化することがあります。わたしたちの技術が浸透することで農業が劇的に変わるという意味の特異点。それから、人工知能も含め、新しい技術が出てきて加速度的に指数関数で物事が進んでいき、ある瞬間に世の中が劇的に変わるのも技術的特異点(シンギュラリティ)と呼ばれており、その意味も含んでいる」と森氏は説明してくれた。
「これまでの農業では、人が介入することで収穫(人が摂取するエネルギー)を得られたが、それを人間なしにまかなえるようにすることが、トクイテンの目指す農業。それは後から振り返ると、文明が変わってしまうほどの特異点になるのではないか。また、そういう特異点と呼ばれるような存在になりたい、という想いで、この社名を選んだ」(森氏)
農地法に守られているからこそ難しかった農地の取得
あくまでも、農業を事業の柱とするのがトクイテンなので、作物を植える土地が必要になる。しかし、その取得には苦労があったという。
それは、農地が農地法によって守られているからだ。この農地法では、地域の農業委員会から許可を得た農家または農業従事者以外に農地を売却してはならないと定められている。また、売却先の管理者が管理を怠り、害虫を発生させる、耕作を放棄して荒れ地にするといったことを防ぐため、信用を得ていることも重要になる。
「農地売却は二束三文にしかならないうえ、信用できない人に売ってしまうことで回りからつまはじきにされるなど、デメリットが多いため、売りたくてもそれをためらう農家が多い」と豊吉氏は解説する。
ここで活きてきたのが、農業大学校を修了したことや、地元の農業法人の土地を間借りし、有機トマトを苗から育てて出荷したという豊吉氏の実績だ。「この人たちなら、きちんと活用してくれる、というお墨付きをもらえた」と豊吉氏は振り返る。
「ようやく30a(アール)程度の農地売却の許可を得られそうというところまでこぎつけた。ビニールハウスを建て、来年の春から本格的に生産を開始したい」と豊吉氏は語る。
それでも国内で始めることのメリット
農地取得が難しいことに加え、国土の狭さ、台風が毎年来襲することも日本で農業のDXを進めることの難しいところだが、それでも日本だからこそのメリットがあると豊吉氏は考える。1つは水資源の豊富さ、そしてもう1つはロボティクスの強さだ。
「農業という業種で高齢化が進んでいることがDXを阻む1つの要因になっているが、高齢化が進んでおり、人手不足だからこそ、ロボットが活きてくる」と豊吉氏は説明する。
「まず、わたしたちはできあいの産業用ロボットに手を加えてすばやく現場投入し、実地経験を積みながら改善していくことを考えている。いちから作ると、1つの作業に特化したものができてしまい、年に数時間しか使わないようないくつものロボットで倉庫が満杯になってしまうこともあるからだ。
ただし、工業用ロボットは、人が近づかないところで作業するよう設計されているので、Co-ROBOT(人と一緒に作業できるロボット)という点ではまだまだ改善が必要。収穫作業や、人があまりやりたがらない運搬作業、農薬散布など、さまざまな作業を行える汎用性の高いロボットを目指したい」(森氏)
手間のかかる有機農業を劇的に加速させたい
2022年春に本格始動を予定しているトクイテン。まずはロボット×有機農業で作ったミニトマトを販売して収入を得るビジネスモデルを確立したいと考えている。
ミニトマトを最初の作物に選んだのは「ミニトマトが好きだったから」と豊吉氏。「嫌いな野菜だと、おいしくできたのかそうでないのかがわからないし、愛着もわかない。しかも、ミニトマトは、野菜の中で産出額が高く市場が大きい。また、最初のロボットは雨が当たらないビニールハウスの中で作業するものを作りたかったことと、品種によって、そこまで育て方に違いがないことも、選んだ理由」だと教えてくれた。
海外のベンチャー企業150社程度を調査し、有機農業を広げようとするところもあれば、作ったロボットの販売を事業の柱にしようとしているところもあったという。
豊吉氏は「ロボットを開発するが、それを単体で売るようなことは考えていない。あくまでも農業が主体で、農作物を売っていきたい」と語る。「ただ、蓄積されたノウハウを売って欲しいという要望が出たら、ロボットを使った有機農業の方法も含めたシステムという形で販売することもあるかもしれない」と展望を述べた。
「今は、有機野菜を作るのに手間がかかるため、一般的な野菜の2〜3割、場合によっては5割ほど高く販売されていて、なかなか手が出せない状況にある。でも、出始めは高くて手が出せなかった電気自動車を一般の人が買えるまでになっているのと同じように、ロボティクスによって、有機野菜が一般化するようになるとわたしたちは考えている。
今はまだ会社のメンバーが少なく、エンジニア募集をしている段階だが、農業分野の拡大や、有機野菜の一般化などにより、農業の特異点となれるよう邁進していきたい」と豊吉氏は語る。
画像クレジット:トクイテン