10年前の今日、「風がいった日」というタイトルでブログを書きました。
てか!あれから10年もたったんかーーーい?!?!?!
やだもう、ここでブログ作ってからもう・・・・え…11年ですか…。
このブログも今年初です。あけましておめでとうございます。
(もう5月です)
そう、今日はヤンさんの退団記念日 5月5日。
あれから25年です。
10年前、私はこの日を「風が逝った日」風逝記と呼んでいると書きました。
ヤンさんが宝塚の舞台を去った日。
じっくりと想い出して残してないなあと思ったので、せっかくの機会だし、今日書いてみようかな、と久々にログインしました。
どうぞお付き合いください。
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ヤンさんの『哀しみのコルドバ / メガ・ビジョン』での退団公演中に起きた、あの忘れられない震災。
それでも宝塚の再開を待ち望み、どうにかしてヤンさんに宝塚大劇場でのサヨナラショーをさせたいと、たくさんの方の想いが結集し、そして結実したあの2日間は、ほんとうに奇跡のようでした。
宝塚大劇場におけるサヨナラショーのみの上演を、5月4日と5日に行うと決まったのは、というか発表になったのは、さよなら公演を梅田芸術劇場(当時は「飛天」)に移しての最終日。
その中でのサヨナラショーのご挨拶の時でした。
私はその時、5分前にやっとこさ手に入れたチケットで、3階のてっぺんで見ておりました。
ヤンさんのお口から小さな声で「実は…」と漏れた時、あの場にいたヤンさんファンのほとんどが「もしかして…って思ったんだよ」って、後日
ファンクラブに入っていた方々に伺いました。
飛天で行うことになった初日から、周辺にいる人たちやサバキを待っている人たちにファンクラブの人たちやファンと思しき個人の方が「良かったら署名していただけますか?」と、ヤンさんの大劇場でのサヨナラショー実施のために走り回っていたのを見ていたし、私も何度も署名しました。なんなら、自分の仕事場でもこっそり集めてた(笑)。
(ちなみに、今あの辺りで同じことはできませんのであしからず。
時代は変わっていくのです。)
とにかくその光景を見ながら、本当に良かったと涙が出ると同時に、「チケット取れるかしら…」と泣きたくなったのも本当です。
ちょっとファンクラブ関係の事情があり、東京公演中でさえチケットを取るのが大変だったこともあって、東京公演中も考えるのは宝塚でのチケットのことでした。
それでもチケットが何とかなったのが、東京公演の終わるちょっと前のことでした。
GWはただでさえ忙しいテーマパークでしたが、シフトの交代を引き受けてくれた同僚がいて、サヨナラショーのある2日間の休みも取れ、宝塚へ向かったのが5月3日の夜行バス。
実は5月5日の本当に最後のご挨拶のある日はチケットが取れていたんですが、5月4日の分は無かったんです。
当時は「エスプリホール」(今もあるの、かな?)での中継まで抽選で、5月4日はそのチケットを手に入れるために朝から並ぶ覚悟だったんです。
でもこれは確か、どこからか手に入れてくれた人がいて、譲っていただいた記憶があるなあ。あまり覚えてないということはあまり苦労しなかったのでしょう(笑)。
しかもその日は11時からバウホールで行われていた月組『結末の彼方』のチケットがあったのです。
友達が取ってくれたものですが、気もそぞろで覚えていません。
成瀬こうきさんとか千ほさちさんが抜擢されていた気がする。
そしてお二人とも、まだあまりお上手ではなかった気がする。なにしろ成瀬さんは研5になったばかりで線も細く、ほさっちゃんにいたっては研2でしかも…お芝居が…。
いやいや今日の話題はそこじゃない(^▽^;)。
5月4日5日とも、仲良しだったヤンさんファン仲間のおうちに泊めていただきました。
泊まらせていただいたお部屋は、「やっと震災のあと片付けが終わって…」ということでしたが、それでも傾いた家具や新しいマンションなのにありえない亀裂があったりして、その地で起きた大地震の強烈さとリアルが、寝んでいても圧し掛かってくるようでした。
翌朝からサヨナラショーが行われる時間までは、何をして過ごしていたかの記憶がありません。たぶん、その友人と入り待ちをしたりどこかをふらふらしていたんだろうなと思いますが、ファミリーランドにホワイトタイガー見に行った気もする…。もう再開してたっけ?
サヨナラショーは飛天、東京、そして大劇場併せて計6回だと思いますが7回見た気もするのよね。気のせいか?なんだそのプラス1。
ここら辺に25年のじぶんのノーミソの衰退が見える。悲しい。
とりあえず6回中5回(うち2回は中継)をこの目で見ることができたのだからラッキーだったと思います。
いちばん最後のサヨナラショーは、劇場で見ることが適ったにもかかわらず、後日BSで「さよなら安寿ミラ」という、今となっては考えられない3日間に及ぶ特番を組んでくれて、しっかりとサヨナラショーも流してくれたおかげで、そちらを反芻して記憶に残っている部分が大きいと思います。
それでもその中で、今でも鮮明に思い出せるのがすべてが終わった後のサヨナラパレード。
月明りと5月としては強い風にさらされて、赤いオープンカーに乗る前にはかま姿で私たちの声援を受け、手を振るヤンさん。
ファンクラブの方々が用意してくれた山桜が振られて、夢の中みたいな景色でした。
私が見ていた場所は、劇場の玄関口の階段の中段、柱のすぐ横。
ヤンさんが車に乗り込む寸前に「ヤンさーーーーん!!」と叫んだら、こっちの方を向いてもう一度手を振ってくれたこと。
その綺麗だったことよ…。
友達とはぐれて帰り際、武庫川にかかる宝塚大橋の上で満月を眺めていると、ビューっと大きく風が吹き抜けて「ああ、いっちゃったなあ…」と声が出てきました。
次の日、午後から仕事だったので朝いちばんの新幹線に乗るために、朝もやのかかる花の道を歩いていたら、2~3人が門の前で星組の当日券に並んでいるのを見ました。
その時にほんとうに「ああ、宝塚の男役、安寿ミラはもういなくなっちゃったんだな」とストンと落ちてきました。
悲しいわけでもなく、泣くわけでもなく、ただ「終わったなあ」とだけ。
ヤンさんの宝塚での最後の役『哀しみのコルドバ』のエリオの台詞です。
私の「宝塚の男役・安寿ミラさんとともに歩いてきた時間」はそこで終わります。
その後、それでもなんだかんだで宝塚に通う日々は終わらなくて(笑)、おかげさまでファンになる前のとむさんの舞台を知らず知らずに結構見ていたりなんかして、今となってはこれもまた貴重な日々でした。
25年という月日の流れは、あの阪神での震災とともに記憶の襞にともすれば埋もれてしまいそうになりますが、それと同じように私の生きていく中でとてもとても大事な事柄であって、死ぬまで覚えておきたいことだな、と思います。
最近よく思うのが「今日はとむさんの初日だった日」とか、「宝塚で初めて出待ちした日」とかの「〇〇記念日」だったりします。
それだけでなく「ああ、今ごろは退団公演中だったな」とか「総見あったな~」「暑い中みんなで日比谷公園で集合写真撮ったなあ」とか、自分の行動が思い出されます。
宝塚の舞台は、特にとむさんの舞台は映像化されているほとんどを持っているけれど、その中で私はこの時何をしてたかという記憶もセットになっているのです。
宝塚は一度ハマると死ぬまで好きでいられるものです。
それは生徒さんだけじゃなくて、その人を応援している時間や空間、仲間との想い出もセットなんですよね。
確かにそこに在ったものやそこにいてくれた人というのは、自分が生きていくための意味になります。たとえ瞬間であったとしても、一生の力になり得るんです。
宝塚を好きな人ってそれが本能的にわかっているからこそ、死ぬまでその場所を、そこで過ごした思い出を、忘れることはないんじゃないかと思います。
初代ベルばらで知り、好きになった宝塚で、ヤンさんにハマりとむさんと出会い、そして今でもすべてが大好きな宝塚。
だから私は今日も、一緒に過ごした日々を思い出します。
今日を生きていくために。
*めっちゃ余談
25年前の5月4~5日は、ほとんど何も喉を通らない日々だったんですが、唯一これだけは食べていたというものが「カップの長ネギ味噌汁」でした。
今でもコンビニで手に取るたびに、1995年のあの日の風が吹きます(笑)。