中国共産党の歴史の中で「歴史決議」が採択されたのは毛沢東とトウ小平の時代の2回だけで、その後、両氏の権力基盤が盤石になったことから、「歴史決議」は時の指導者の権威を高める手段の1つとされています。
最初に採択されたのは、中華人民共和国が建国される前の1945年4月です。
すでに共産党トップだった毛沢東は、路線をめぐって対立する幹部らを失脚させたのち、この年の「7中全会」でこうした幹部らを改めて批判したうえで、毛沢東をたたえる内容を盛り込んだ「若干の歴史問題に関する決議」の採択にこぎ着けます。
そして、このあと開かれた共産党大会で、党の最高規則にあたる党規約に「毛沢東思想」が盛り込まれ、毛沢東の絶大な権威が確立しました。
2回目は、中国全土を混乱に陥れた文化大革命が終結して5年後の1981年で、この年の「6中全会」では、文化大革命を発動した毛沢東の過ちについても指摘する内容を盛り込んだ、「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」が採択されました。
決議を主導したトウ小平は、同じ会議で中国軍のトップにあたる中央軍事委員会主席に就任し、最高実力者としての権力基盤を固めました。
過去2回の歴史決議は、「歴史問題」と位置づけることでそれ以前の党内の体制や指導者を否定し、みずからの路線を正当化する要素が強いものでした。
一方で、今回の歴史決議は「党の100年の奮闘の重大な成果と歴史経験に関する決議」とされ、歴代の指導者の功績を認めつつ、習近平国家主席の実績なども盛り込んだ肯定的な内容になるとみられ、党内の反発を招かないよう配慮した可能性もあります。