すっかり忘れていましたが、昨日の11月11日はパレスチナの前PLO議長の命日でしたね(2004年11月11日)。
もっとも、これは私だけでなく、アラビア語メディアでも昨日は特に取り上げるところはなかった模様で、敢えて言えば、アラファトも遠くなったものだ、ということなのでしょう。それを言えば、アラファトの右腕で、彼の後継者となったアッバス議長もすっかり影が薄くなり、最近ではパレスチナと言えばハマスの名前の方が良く出てくるくらいです
更に言えば、そもそもパレスチナ問題はかって「アラブの大義」とされ、アラブ人共通の最大の関心事でしたが,アラファトのイスラエルとの共存路線を受け、エジプトとヨルダンがイスラエルと国交を結んだことはともかく、トランプ大統領の下で、「世紀の取引」とやらで、UAE,バハレンが国交を結び、更にスーダンとモロッコがこれに続いた模様で、また極く最近ではリビアの例のhaftarの息子がこっそりイスラエルを訪問し、haftarがこの12月の選挙で大統領に当選すれば、イスラエルを正式に承認するとしてその見返りで政治的軍事的を要請したなどというニュースもあり、パレスチナを巡る情勢は大きく変わっています
このブログで個人的な経験をかくのは、憚られますが、一つだけ書かせていただくと・・・
確か1974年の国連総会で、パレスチナが国連のオブザーバー資格を付与されて、アラファトが出席し、「自分は片腕にオリーブの枝、もう一方にカラシニコフを持ってきた」として、パレスチナはイスラエルと共存する意思があるということを初めて公式の場で公式に表明しました。
アラファト率いるPLOはそれまで武闘路線で、共産圏やエジプト等アラブ民族主義国家の支援を受けて、ゲリラ活動やテロ活動を行い、イスラエル軍やモサド等と激しい闘争を行っていました。
このため、JDLだったかのユダヤ人過激派は、アラファトを生きてNYからは帰らせぬなどと息巻いていました。
そのようなこともあり、米国等各国はアラファトの総会での演説に代表団を出すとか出さないとかで騒いでいましたが、日本は(いつものことでしょうか?)アジアの一国で親米国家ということで、国の代表たる大使等代表部幹部は出席せず、中間職であった私だけが出席しました。アラブや途上国、ソ連等は当然大使が出席。
国連総会の開かれる広い会議場の席次は毎年変わるが、前列から英語のアルファベット順に、かなり長い机に2国が座ることになっています。
ということで、日本Japanの隣りにはヨルダンJordan大使が座ることとなりました が、その年は演壇のすぐ前の最前列でした。
演説の始まる前に座っていたところ、ヨルダン大使が、もしユダヤ人のばかがアラファトをやるために手りゅう弾でも投げたら、2人とも道連れだな、と笑ってささやいてきました。
幸い、いくらJDLの猛者もそんな無茶はせず、2人とも無事生き延びました
確かその頃、PLOが安保理決議242の受け入れを表明し、これがイスラエル承認と見做され、その後和平交渉が米の仲介で続いていくことになりました
そのクライマックスがクリントン大統領がアラファトとバラク・イスラエル首相(労働党)を大統領山荘に招いて、パレスチナ問題の最終的解決を協議したことです。
残念なことに、その時イスラエルの提示した和平案にアラファトが難色を示し、席をけったために、和平交渉は挫折し、その後はイスラエルの修正主義の系譜をひくネタニアフ首相の強硬姿勢で、オバマ大統領の和平努力も成功せず、トランプとなり、それでなくとも基本的には親イスラエルの米政策が完全なイスラエル一辺倒となり、またパレスチナ側でもアッバス議長の影が益々薄くなり、ハマスの力が伸びたということになっていることは、ご承知の通りです。
長くなりましたが、年寄りの昔の回顧です