新型コロナウイルスとの闘いは未だ終わる兆しがなく、職場や通勤における感染リスクを避けるべく労働環境はこの1年で大きく変化した。
その中でも、出勤をせずに済むテレワークは感染拡大防止に効果があることが明確であり、「成果よりも勤務態度を重視」という旧態依然とした日本企業に対しても、否が応でも対応を促すことになった。
個人的に「気の緩み」という言葉は上から目線の極みのようで非常に嫌いなのだが、今回のコロナ騒ぎで盛んに、個人に対する「気の緩み」が指摘されている。
しかし、気が緩んでいるのは個人だけではない。2回目、3回目と緊急事態宣言が発出されるたび、企業の「気の緩み」も進んでいる。
個人の体感レベルの話で申し訳ないが、昨年4月の1回目の緊急事態宣言発出時、通勤のために電車に乗ると、座席はガラガラで座り放題だった。
しかし、昨年の2回目、今年4月の3回目の緊急事態宣言の際には、通勤電車におけるサラリーマンたちの数は、コロナ前と比較して目に見えるような大きな変化はなかったように感じられる。つまり、個人がどう思っているかどうかはわからないが、企業としては出社して業務することを社員に対して命令しているということだろう。
1回目の緊急事態宣言であれだけ人が減ったにも関わらず、なぜ2回目、3回目ではこのような結果なのか。
理由は簡単で、緊急事態宣言は企業にすら「見切られた」のである。
本来、「緊急事態宣言」というのは、未曾有の危機が発生、または発生することが確実となった状態で、強い強制力をもった対策を行なわなければならない場合の最後の切り札として発動すべきものである。
国民にも企業にも、そういう考えは当然あっただろう。そのため、1回目の緊急事態宣言においては、多くの国民は家に籠り、正体のはっきりしない恐怖の新型コロナウイルス襲来に備えた。
しかし、あれから1年が経った。
新型コロナウイルスに対抗するエビデンスも増え、ワクチンも開発された。
世間は変異株だと騒ぎ立て、事実として20代・30代の死者が出てしまったものの若年層の感染者全体から見れば僅かな数値であり、従来株と比べて「若年層が目立って悪化しやすい」という明確なエビデンスもない。
それなのにただ闇雲に外出自粛、会食禁止などといった1年前と変わらない対策を国民に「お願い」しかしない政府と、感染者数や重症化数の絶対値だけで市民を恐怖感で煽り続けながら、芸能人をノーマスクで食リポさせるマスコミのダブルスタンダードを遠くから冷めた目で見る人も増えているのではないだろうか。
そんな中、半年前、1年前と同じようなレベル感で「緊急事態宣言」を出したところで、個人も企業も、表向きは「従っているふり」をするかもしれないが、心の奥底から「緊急事態だ」と思っている人は、1回目の宣言発出より確実に減っただろう。
2021年GWの新幹線など交通機関の利用率は、コロナ前の平年と比較すれば大幅に少ないものの、それでも昨年と比較すれば大幅増に転じている。企業もそれは同じであり、今の段階で考えることはどれだけ国や自治体の機嫌を損ねずに「従ってるふり」をできるかという事である。
昨年4月の1回目の緊急事態宣言においては、真に感染を防がなければという思いが各企業にはあったと思われ、少しでも感染者と接触する人を減らすための工夫として「輪番制」を導入する企業が、自社も含め関係会社も多くみられた。
いまさら説明するまでもないと思うが、「輪番制」とは組織を2グループ(もしくはそれ以上)に分割し、異なるグループ間で交互に出社を行うことで、仮に1グループで感染者が出たとしても、2グループ目は出社していないため、接触を免れるという方法である。この方法は、厳密にグループ間の出社制限をしなければ意味がないため、よほどの緊急事態を除いて、かなりの出社が抑止されることになった。
しかし、2回目、3回目と緊急事態宣言が発出されるにあたり、「輪番制」は、「コロナでも減ることのない業務量」に対して効果が割に合わないということで、これも私個人の体感レベルで申し訳ないが、関係会社も含め撤廃された企業が多かった。
国からは、出社人数の7割減少が目標値として示されているものの、特に方法は指定されておらず、「輪番制」も各企業で工夫された結果、生み出されたものにすぎない。しかし、いつ国から出社抑止の実績を確認されるか分からない。
そんな時に役に立つのが「働かないおじさん」達の出社を抑制することである。
「働かないおじさん」とは、会社にはちゃんと来るものの、その働きぶりが役職に見合っていない人に付けられる蔑称のようなものである。
主な仕事としては、出社して休憩室でコーヒーを片手に新聞を読み、たまに席に戻ってきて適当にハンコを押し、離席が多いものの定時前には戻ってきてきっちり定時で帰るという誰もが羨むような給料泥棒である。
普段は会社に貢献することは少ないが、コロナ禍における出社抑止において、これほど出社率の削減に適した人材もいないだろう。そもそも、ハンコを押す以外に存在価値がないので、基本的には会社にいなくても何ら問題がない。
仕事量の差はあれど、こんな人でもきっちり「1人」としてカウントできるため、適当な理由を付けてテレワークをお願いすれば、二つ返事で受けてくれること間違いない。
一方、多忙な社員というのは、できれば出社して効率を上げつつ仕事を進めたいと思うはずだ。
最近はチャットなどのツールも豊富なため、テレワークでもできないことはないが、やはりオンラインでの会議はタイムラグなどが煩わしいし、何より人とのコミュニケーションは出社したほうが明らかに取りやすい。
また、会社としてもそのような「キーマン」には、プロジェクトの進捗にもかかわることから、テレワークをしてほしくないと密かに考えているだろう。
ただし、「働かないおじさん」が出社しないため、「おじさん」の代わりに会議出席を要請されたり、代理で承認したりする作業が増えることは想像に難くない。忙しい人の負担は、余計に増えるのである。
ここまで書いてきたように、「働かないおじさん」「多忙な社員」「会社」の各者の関係が、コロナ禍における形式的なテレワークの実態である。
テレワークの利点のひとつとして、出勤による満員電車の苦痛や時間的損失を軽減し、個人のワークライフバランスを向上できることがメリットである。コロナ禍を機に、停滞していたテレワーク推進が動き始めたのは怪我の功名と言ってもよい。
しかし、実際に運用するにあたって炙り出されたテレワークの問題というのも、この記事で書いてきた内容のようにあるはずだ。
いくらテレワーク環境が優れていても、そもそも考え方が柔軟で、コミュニケーションツールも豊富に利用できるベンチャー企業を除いては結局のところ、オフィスにいる時と同じ効率で仕事をすることは現状ではできないというのが実情だろう。
また、積極的にSNSやクラウドストレージを活用できるベンチャー企業のフットワークの軽さは、仕事の効率化という面においては大きく寄与すると思うが、情報漏洩の危険性などセキュリティ面でリスクが高いというのも事実であり、大企業が導入に及び腰になったり、ちぐはぐな仕組みとなってしまうのも無理はない。
特に、旧態依然とした日本企業が急きょテレワークを導入したような場合には、うまく噛み合わず、煩わしさゆえに結局出社中心に回帰するということもあるだろう。
そうなってしまうと、結局はいなくても業務が回る「暇な人」がテレワークを積極的に行って「実績稼ぎ」をし、コア業務を担う重要人物は、そもそもの導入目的の一つであるワークライフバランスそっちのけで長時間労働を課されるといった「仕事量の二極化」というのが、ますます進んでいくのではないだろうか。
そうなってしまえば、いくらテレワーク環境が整備されたところで、本来の目的から考えれば本末転倒である。