気候変動は、長年にわたり、人類が解くべき最も奥深く、最も困難な知的パズルだ。複数のシステムのさらにその上で複数のシステムが動いているため、直観的なアイデアを簡単に破滅的な行き詰まりに変えてしまうような創発的な性質がある。1つのアクションに対して複数のリアクションがあり、システムのある部分を改善すると、必ずと言っていいほど他の部分の弱点があぶり出される。
当然のことながら、この課題の及ぶ広さを考えると、地球を理解するために複雑性理論や「システム思考」が重要になってくる。システム思考は、技術者に人気のあるフレームワークでもあり、概してソフトウェアエンジニアリングやテクノロジー製品、そして社会全体にもよく当てはまる。それは、世界の小さな特徴や変化を1つ1つ個別に捉えるのではなく、それらすべての関係性を構築し、一般にはばらばらの現象にしか見えないところにつながりを見出すものだ。
インドの著名な小説家であるAmitav Ghosh(アミタヴ・ゴーシュ)氏は、深遠で魅力的な著書「The Great Derangement(グレート・ディレンジメント、未邦訳)」の中で、鋭い分析力と観察力を発揮し、訪れた各所で直感では理解しがたい人間と地球の相互関係を見抜き、書き綴っている。同氏が2015年にシカゴ大学で行った一連の講義を編集したこの本は、緊張感があり刺激的な思考に溢れ、筆者が近年読んだ本の中でも最高のものの1つだ。
ゴーシュ氏の主な論点は、気候危機の状況を説明する上での文化、特に文学的な文化の役割にある。同氏は、それがまったく機能していないことに驚愕し、それがこの本のタイトルである「グレート・ディレンジメント(大いなる狂乱)」につながっている。気候変動は文化に付随して起きるものに他ならず、ストレスにさらされた地球の日常的な危機にますます怯える世界においては、正気の沙汰ではないということだ。実際「気候変動を扱った小説は、正統な文学誌ではほとんど相手にされないといってもいいだろう。テーマとして気候変動について触れているだけで、文学的な小説や短編がSFのジャンルに追いやられてしまうことが多い」と同氏は書いている。
同氏は、気候変動に関連して身に起きたことを語っている。若い頃、都市部を襲った猛烈なサイクロンで九死に一生を得たことがあったのだ。しかし、そのことを思い返しているうちに、同氏は、この死と隣り合わせの経験は、小説の題材には行かせないということに気づいた。あまりにも恣意的で、心の広い読者でさえ陳腐に思える三流ドラマ的なネタだ。同氏自身の生々しい体験、つまり本物のリアルな経験であっても、ほとんど起こりえないことのように思えるため、文芸作品としては書くことができない。
個人単位でみれば、気候変動に起因する大惨事が降りかかる確率は低いが、数多くのサイコロを振った結果の総数と同様に、災害の頻発は保証されているようなものだ。そのことがゴーシュ氏に確率の歴史について熟慮させるきっかけとなった。「確率と現代小説は実は双子のようなもので、ほぼ同じころに、同じ人々の間で、同じような経験を封じ込める器として働くことを運命づけられた同じ星の下に生まれた」と同氏は書いている。何千年にもわたって人類の特徴であった人生の不規則性は、産業時代の幕開けとともに規則化されてきた。人類は、世界の混沌をなんとか抑えた後、自分たちの環境と運命をコントロールし始めた。そのため、近代になると確率はあまり重要ではなくなった。
もちろん、まさにそのようなコントロール志向こそが、現在の気候の崩壊をもたらした。生活の水準を向上させる代わりに、人類に必要な自然の調和を犠牲にしたのだ。サンフランシスコのベイエリアで見られたのどかな自然は、今や干ばつや山火事など、相次ぐ気候の危機によって阻害されている。私たちが織り成すグローバルコミュニティは、現在、サプライチェーンの混乱、旅行のキャンセル、国境の閉鎖、政策の変更などで足元が定まらない。私たちの調和のシステムは、自らと戦うシステムになってしまっている。
ゴーシュ氏が問題だと考えていることの1つは、文化が、地球の力の前に為す術もなく打ち負かされている個人の物語を中心としたものになっていることだ。同氏は、John Updike(ジョン・アップダイク)氏の「individual moral adventure(個人のモラルをめぐる冒険)」という言葉を借りて、特に西洋で作られた現代文学について説明している。私たちはヒーロー、つまり主人公を求めている。直感的に共感でき、挑戦の旅に乗り出し、最終的にその克服に至るまでの苦難を理解できる人物だ。
しかし、気候はシステムであるため、実際のところ個人の行動では歯が立たない。Kim Stanley Robinson(キム・スタンリー・ロビンソン)の「The Ministry for the Future(ミニストリー・フォー・ザ・フューチャー、未邦訳)」のレビューで指摘したように、気候をめぐる変化の基礎となる官僚的な奮闘について読者の関心を引くのはほぼ不可能だ。自分たち全員を除いて悪役はいない。それは、読者や視聴者が小説に期待している筋書きではない。
さらに悪いことに「個人のモラルをめぐる冒険」という物語のニーズは、問題の本質が物語の中心でさえない世界へと私たちを引きずり込んでしまう。ゴーシュ氏は、このような状況を批判し、次のように書いている。「フィクションは目撃し、証言し、そして良心の軌跡を描くような形で、読者の心の中で再構成されるようになる。このようにして、政治においても文学においても、誠実さと信頼性が最大の美徳となる」。その結果、個人や集団の主体性が低下していく。「大統領選挙からオンライン嘆願書まで、あらゆるレベルで公的領域がますます行為遂行的になるにつれ、実際の権力行使に影響を与える能力はますます弱まっていく」と同氏は書いている。
システム思考というと、技術的あるいは科学的な関係だけで切り捨てられがちだが、ゴーシュ氏はその範囲を広げ、文化もその要素にうまく含めている(本書の3つの章は「物語」「歴史」「政治」と題されており、同氏の貢献の対象がうかがえる)。自然の生態系を調べ、中で何が起こっているかを見るだけでは不十分だ。そもそも人間がどのようにこのシステムを考え、結びつけているのかを理解しなければならない。同氏の分析は、すでに深い階層になっている問題に、新たな重要な層を加えるものだ。
では、この文化、権力、政治へ踏み込むには、どうすればよいのだろうか。最終的にゴッシュ氏は、伝統的な宗教指導者が気候変動問題の主導権を握ることが重要だと考えている。同氏は次のように書いている。
宗教的な世界観は、気候変動が既存の統治機関にとって大きな課題としているような制限を受けない。また、国民国家を超え、世代を超え、長期的な責任を認めている。そして、経済主義的な考え方に支配されていないため、現代の国民国家が広く共有する推察力ではおそらく不可能な方法で、直線的ではない変化、つまりカタストロフィーを想像することができる。
ゴーシュ氏は、このスリムな本の中で、他にも多くのテーマに触れているが、同氏の博識で、時に一般とは異なる考え方は、気候問題と未来のガバナンスをめぐる議論や参照すべきポイントの多くをうまく再構成している。優れたシステム思考と同様に、同氏の分析は、最終的には「難しい問題を理解するためのさまざまなレンズ」という総合的なものになる。私たちは幸運にも、この泥沼から抜け出す道を見つけられるかもしれない。
あるいは、そうではないかもしれない。気候に関する議論は何十年も続いているが、私たちは根本的な問題を解決するために、実際のところまだほとんど何もしていないからだ。ゴーシュ氏は、1961年に初めてアジア出身の国連事務総長となった、第3代国連事務総長、U Thant(ウ・タント)氏の言葉を引用している。
夕方から夜にかけて、スモッグに覆われた、私たちが生まれ育った地球の汚染された海に沈んでいく太陽を見ながら、将来、他の惑星に住む宇宙歴史家に私たちのことをこう言われたいと思うかどうか、真剣に自問する必要がある。「天才的な才能と技術を持ってしても、彼らは先見性と空気と食料と水とアイデアを使い果たしてしまった」あるいは「彼らは世界が崩壊するまで策を弄し続けた」と。
その歴史は今まさに刻まれている。目の前に置かれたパズルは確かに厄介だが、理解できないわけでも、解決できないわけでもない。
画像クレジット:Juan Silva / Getty Images
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(文:Danny Crichton、翻訳:Dragonfly)