私は、令和3年7月29日に突然の死を迎えた倉掛冬生の母です。
あれから3週間近くが経ちますが、最愛の息子の冬生を失った悲しみは日に日に募る一方で、今でも冬生がいなくなった現実を受け容れることができません。
毎朝、冬生が「おはよう」と元気に起きてくるのではないかと思ってしまいます。
今もなお全く心の整理がついておりませんが、事件後マスコミの方々から何度も取材の申し入れをいただいておりますので、今回、弁護士さんを通じてコメントという形でお答えさせていただきたいと思います。
あの日の朝、私は冬生のお兄ちゃんと一緒に冬生の見送りに出ました。
園長先生がお迎えバスの運転席から降りてスライドドアのほうに回ってきて、冬生の手を消毒してバスの中へ誘導していました。冬生は園長先生に「おはようございます」と元気に挨拶をし、私たちに「行ってきます」と笑顔で手を振ってお迎えバスに乗り込みました。
まさかこれが冬生の元気な姿を見る最後になるなんて思いもしませんでした。
帰りの時間になり、私はいつものように冬生がバスから降りてくるのを待っていましたが、冬生は降りて来ませんでした。
そして、担任の先生が「今日は冬生君、来ていませんよ」と言ってきましたので、私は「いや、行きました」と伝えました。担任の先生は携帯電話で園に連絡しているようでしたが、他の子もいましたのでそのままバスは行ってしまいました。
そうしたところ、10分もなかったと思いますが、警察の方から電話がかかってきて「家で待っていてください」と言われました。
私は、嫌な予感がして居ても立ってもいられず、双葉保育園へ走っていきました。
保育園に着くと警察の方が来ており、冬生は既に救急車で運ばれていました。そして、園長先生が出てきて「ごめんね。バスの中に寝てたの気付かんやった」と言われました。
私には、園長先生が特にうろたえるでもなく平然と言っているように感じられました。
私が病院に着いたとき、お医者様が冬生の心臓マッサージをしておられました。私はパニックになりお医者様に「冬生を助けてください」と泣き叫んですがりましたが、冬生が息を吹き返すことはありませんでした。
冬生は、いつもの明るい表情とは程遠く、とても苦しく辛そうな顔をしていました。
なぜこのようなことになってしまったのか、とても理解が追い付きません。
双葉保育園へ預けてしまった私がいけなかったのだと考えてしまいます。
冬生が1人閉じ込められたバスの中で、どんなに苦しかったか、どんなに暑かったか、どんなに寂しかったか、どんなに怖かったかと思うと、胸が張り裂けそうになります。
とても言葉では言い表せません。
冬生には、お母さんが助けてあげられなくてごめんなさい、お母さんが双葉保育園のバスに乗せてしまってごめんなさい、幸せな人生を送らせてあげられなくてごめんなさい、と謝っても謝りきれません。
双葉保育園で冬生が初めて1度だけ帽子を忘れたときに廊下に立たされていたことがありました。また、冬生は私に何度か「園長先生に気に入られるようにしなきゃ」と言っていました。
幼い子供がこのように気を遣っていて、おかしいなと感じていました。それなのに私が冬生を転園させてあげられませんでした。今はそのことをとてもとても後悔しています。
冬生は本当に心優しく、お花が大好きな子でした。私によく、道端に咲いているお花を摘んできて「ママ大好き」と言ってお花をくれました。「僕がママを守ってあげるからね」と言ってくれることもありました。
なぜ冬生があんなに苦しい思いをして、たった5年で命を絶たれないといけないのでしょうか。
叶わぬこととはいえ、今はただ、冬生に戻ってきてほしい、冬生にもう一度会いたいという気持ちでいっぱいです。
R3.8.16倉掛冬生 母