〜〜もう一度乗りたい!名列車・名車両の記録No.4〜〜
ちょっと前までは実用本位そのものの長距離列車が多く走っていた。今回紹介する特急「日本海」、急行「きたぐに」がその典型だった。
近畿と北陸、新潟、日本海沿いの東北各県を結んだ両列車は、昼夜もなく大量に旅客を運んだ時代の、最後の〝残り火〟だったのかも知れない。そんな名列車の記録をひも解いてみよう。
*写真はすべて筆者撮影・禁無断転載。学研パブリッシング刊「寝台列車を乗り尽くす」誌内の図版と地図をリメイクして使用しました
【名列車の記録①】45年間も日本海沿いを走り続けた「日本海」
ほぼ日本海に沿って走る北陸本線、信越本線、羽越本線、奥羽本線は、全線を通して日本海縦貫線という名前で呼ばれた。いま、日本海縦貫線という路線の総称は、貨物輸送を除いてほぼない。北陸新幹線の延伸開業(2015・平成27年3月14日)とともに、北陸本線は第3セクター経営の路線となり、JRの路線網からは切り離されてしまった。この日本海縦貫線を縦断した長距離列車が特急「日本海」であり、急行「きたぐに」だった。両列車とも、今ふり返ればかなり異色な存在だった。
どのような列車だったのか。まずは「日本海」から見ていくことにしよう。
■特急「日本海」の概要
運行開始 | 1968(昭和43)年10月1日 |
運行区間 | 大阪駅〜青森駅 |
営業距離 | 1023.4km |
所要時間 | 下り14時間58分、上り14時間56分(2012年の所要時間) |
車両 | 24系客車8両(多客期は増結)+24形電源車。 牽引はEF81形交直両用電気機関車 |
運行終了 | 定期運行2012(平成24)年3月16日、臨時運転2013(平成25)年1月6日 |
日本海側を通り、大阪駅と青森駅を結ぶ列車が生まれた歴史は意外に古く、1947(昭和22)年と戦後まもなくのことだった。「日本海」という列車名は、1950(昭和25)年に同区間を走る急行列車に付けられたのが始まりで、特急列車となったのは1968(昭和43)年のこと。当初は米原駅経由で走り大阪駅〜青森駅を結んでいたのだが、湖西線の開業後の1975(昭和50)年からは、湖西線経由で走った。
列車の人気はかなりのもので、当初1日に1往復だったが、その後に1日に2往復に増便され、さらに1988(昭和63)年の青函トンネル開業後は、1往復が函館駅まで延伸運転された。このころが特急「日本海」の全盛期と言えただろう。
2006(平成18)年には函館乗り入れは終了し、2008(平成20)年に1日に1往復に減便された。高速バスの運行などによる利用者の減少と、使われていた客車の老朽化などの諸事情から、北陸新幹線の開業を待たずに2012(平成24)年に定期運行を終了、その後に夏休み、冬休みなどの多客期のみに臨時運行されたが、それも翌年の1月で終了した。
【名列車の記録②】ほとんどが開放2段式B寝台という徹底ぶり
「日本海」の客車編成を見ておこう。
寝台列車のブルートレインも、2000年代半ばになると、どの列車にも個室が付けられるようになっていた。ところが、「日本海」は最後まで個室がつかず、B寝台はもちろん、A寝台まですべて開放2段式の24系客車が使われた。寝台車は、昼間は座席車として、夜を迎えるとベッドメイキングにより2段ベッドに変更できる「プルマン式」と呼ばれるタイプだった。
24系客車の開放2段式のB寝台車両は、1973(昭和48)年から製造されたものだ。「日本海」に使われたのはJR東日本の青森車両センター所属の客車で、製造当初のものも混じる〝年代物〟だった。客車の各所、例えば、窓枠テーブルの裏には「センヌキ」が付いていた。洗面台のデザインもレトロで、洋式トイレの壁には「腰掛便器の使い方」という記述があるなど、国鉄時代のままの機器類が残された、寝台列車の〝生き字引〟のような客車だった。
旅客用の客車は基本8両で編成され、1両のみが開放2段式のA寝台。残りはみなB寝台。通常時は客車8両で運行されたが、多客期にはB寝台4両が増結され客車12両で走った。ちなみに開放2段式のA寝台オロネ24形0番台は1973(昭和48)年に新造の車両で、JR東日本でわずかに3両が残った貴重な客車だった。
客車がJR東日本の車両であるのに対して、牽引機関車はJR西日本のEF81形交直両用電気機関車で、「日本海」牽引機はローズピンク一色で塗られていた。鉄道ファンには〝ローピン〟塗装車として親しまれていた。同機関車は敦賀地域鉄道部敦賀運転センターの配置で、大阪駅〜青森駅間の運行では、上り列車の場合には、敦賀駅での機関車の切り離し・連結作業が行われた。このあたりは寝台特急「トワイライトエクスプレス」と同じ運行方法だった。
【名列車の記録③】下り列車では津軽富士が乗客を出迎えた
営業キロ数1000kmを越えて走った特急「日本海」。大阪駅発の下り列車は17時47分、一方、青森駅発の上り列車は19時31分のそれぞれ発車だった(時間等は最終運転年のもの=以下同)。
下り列車は北陸本線の各駅に夜に停車して、乗客を乗せて青森へ。一方、上り列車は東北地方の各駅で乗客を乗せて大阪へ向けて走った。
ここからは下り、上りの車窓風景について触れておこう。
まずは下り列車から。車窓風景が楽しめるのは早朝、秋田県に入ってからだった。秋田駅に5時32分に到着。近畿圏からの移動手段として、ちょうど一休みして、早起きしたころに到着できて便利だった。
その後、東能代駅(6時27分着)、鷹ノ巣駅(6時53分着)、大館駅(7時17分着)、大鰐温泉駅(おおわにおんせんえき/7時47分着)と主要駅に停まっていく。そして弘前駅にはちょうど8時に到着した。
弘前駅の先では津軽平野に広がる水田の向こうに津軽富士とも呼ばれる岩木山がひときわ美しい姿を見せた。やはりこの姿が見えることが、下り特急「日本海」の魅力だったと言えるだろう。
岩木山が見えたら終点の青森駅へはあと少しの距離だった。大釈迦駅(だいしゃかえき)を通過し、次の鶴ケ坂駅までは狭隘な地をトンネルで越えた。
弘前駅の次、新青森駅には8時39分に到着。とはいえ、東北新幹線が新青森駅まで延伸したのは2010(平成22)年12月のことで、それから「日本海」はわずか1年4か月ほどで定期運行を終えてしまったので、「日本海」と東北新幹線の接点はあまりなかったと言えるだろう。
むしろ、東北新幹線が新青森駅まで延伸されたことが、特急「日本海」の廃止を早めた一つの要因になったのかも知れない。
新青森駅からわずかに6分ほどで青森駅に到着。客車列車らしく、終着の青森駅のホームへ余韻を楽しむようにゆっくり入り、約15時間の長い列車旅が終わりをつげるのだった。
【名列車の記録④】上りは車窓から朝の琵琶湖の美景が楽しめた
さて、上り列車はどのような風景が楽しめたのだろうか。青森駅発が19時31分と遅めだったこともあり、東北地方はひたすら闇の中を走った。
一夜明け、北陸地方に入り金沢駅(6時16分着)、加賀温泉駅(6時50分着)、福井駅(7時17分着)と、駅到着ごとに明るさが増していった。そして敦賀駅に8時2分に到着。ドアが開くと、ホームへ降りてくる乗客の姿が多く見かけられた。一部の人たちは朝食を購入しようと駅の売店へダッシュした。
敦賀駅で8時21分の発車まで約20分の停車時間があった。ここでEF81形交直両用電気機関車の付け替えが行われたのである。大阪駅〜青森駅間を1往復、約2000kmを越える長い距離を走ってきたため、機関車の整備・点検が欠かせなかったのである。
多くの乗客がホーム上で機関車の切り離し、連結作業を見入った。このあたりが客車列車らしいところで、先を急がない観光客だからこそ許せる長時間の停車であった。逆に言えば、急ぐビジネス客には向いていない列車でもあった。
牽引機関車を付け替えた「日本海」は敦賀駅〜新疋田駅間の急勾配に挑む。このあたりは特急「トワイライトエクスプレス」と同じ行程をたどった。
新疋田駅までの急勾配を上った「日本海」はこの先、福井県から滋賀県へ入る。そして近江塩津駅(8時38分通過)からは湖西線へ。湖西線では近江今津駅(8時54分通過)付近からは徐々に進行左手に琵琶湖が見え始めた。上り「日本海」の最も楽しみな景色でもあった。
左手に琵琶湖、右手に比良山地を眺めつつ列車は走り続ける。空気の澄んだ季節には琵琶湖の先に伊吹山などの山々が望めた。
大津京駅(9時41分通過)を過ぎまもなく東海道本線に合流、京都駅には9時51分に到着する。
京都駅の先は新大阪駅(10時21分着)、終着駅の大阪駅には10時27分に到着。こうした遅めの時間に到着することもあり、ビジネス利用というよりも、観光での利用が多い列車だった。
開放式寝台のみという列車は「日本海」の〝晩年〟を振り返ると、古くなりつつあったスタイルだったのかも知れない。見ず知らずの人が寝る段は違えども、睡眠環境を共にするわけである。消滅してからすでに9年あまりたち、よりプライバシーを尊ぶ時代となってきた。北陸新幹線の開業前に消えてしまった理由には、開放式寝台の意外な不人気があったのかも知れない。
【名列車の記録⑤】583系最後の定期列車となった「きたぐに」
特急「日本海」と同時期に消滅したのが急行「きたぐに」だった。この「きたぐに」ほど、一時代前の輸送形態を色濃く残した列車はなかった。そんな「きたぐに」が運行されたころを振り返ってみよう。
■急行「きたぐに」の概要
運行開始 | 1968(昭和43)年10月1日 |
運行区間 | 大阪駅〜新潟駅 |
営業距離 | 581.1km |
所要時間 | 下り8時間57分、上り7時間45分(最終年の所要時間) |
車両 | 583系交直両用特急形電車 |
運行終了 | 定期運行2012(平成24)年3月17日、臨時運転2013(平成25)年1月7日 |
急行「きたぐに」は1968(昭和43)年に大阪駅〜青森駅を走る列車として運行が始まった。その後、1982(昭和57)年に上越新幹線の開業に合わせて大阪駅〜新潟駅に運転区間が短縮された。多くの急行が特急に格上げされる中で、最後まで急行列車という〝格付け〟が代わらなかった珍しい列車でもあった。
この列車が消えたことにより、有料急行は「はまなす」(本サイトで前回に紹介)のみとなった。JRグループの有料急行列車の中で、ラスト2番目まで残った列車でもあった。
急行「きたぐに」が走り始めたころ、車両には14系客車を利用していたが、1985(昭和60)年3月に583系という特急形電車が使われるようになった。晩年には583系で運行された最後の定期運行列車にもなった。583系とはどのような電車だったのか触れておこう。
1968(昭和43)年に登場した583系は高度経済成長期に、拡大した輸送需要に対応すべく、より早く多くの人を運ぶために生まれた電車だった。昼は座席、夜は座席を寝台に変更して利用できる昼夜兼行仕様と呼ばれる電車で、直流区間はもちろん、交流50Hz、60Hzの3電源に対応できた。大量輸送時代に便利な車両だったのである。そのため434両と大量に造られ北海道、四国をのぞき、全国で活躍した。
昼夜問わずフルに稼働した車両が多く、全盛期には1日に1500kmも走ったとされる。そのために老朽化も早かった。また、昼夜兼行という形で運行する列車が徐々に消えていき、余剰車両も増えていった。
余剰となった車両は、短い編成に分けられ、北陸・九州地方を走る普通列車用の419系・715系として改造された。「きたぐに」が運転された最晩年、583系はJR西日本とJR東日本(臨時列車用に利用)にわずかに残るばかりとなっていた。
【名列車の記録⑥】3段式のB寝台車は国鉄時代の花形車両だった
急行「きたぐに」は583系10両で運行された。内訳は1〜4号車が自由席座席車、5号車・7〜10号車は開放3段式のB寝台、6号車がグリーン車でリクライニングシート仕様、さらに7号車が開放2段式のA寝台だった。
昼夜兼行で走った当時の583系は、昼は座席、夜は寝台に転換して利用された。転換は機能を熟知した専門スタッフが必要で、同一列車で営業運転中に座席→寝台化といった転換作業を行った例もあったが、こうした使われ方は珍しかった。
急行「きたぐに」の場合には座席か、または寝台が常に固定化されていて、途中で変更することはなかった。
座席と寝台が転換できるように造られたため、特急形だったものの普通車の座席はリクライニングシートではなくボックスシートで、座り心地も決して良いとは言えなかった。このような構造の583系を使い続けたために「きたぐに」は急行から特急に格上げできなかったということもあったのだろう。
B寝台の車両は開放3段式だった。下段、中段、上段と3段のベッドが使える構造で大量輸送が必要な時代には最適な構造だったのだろう。ブルートレイン客車のB寝台が車両の進行方向に対して直角にベッドが設けられたのに対して、583系のベッドは真ん中の通路に沿って寝る造りとなっていた。屋根も高い構造の車両のため、個々の寝台スペースは意外に広かった。
「きたぐに」には開放3段式B寝台は4両が連結されていた。プルマン式の3段ベッドが通路の両脇に並ぶ様子は、壮観ですらあった。寝台のカーテンにはしっかりと縫い付けられていた寝台番号の刺繍や、仕切るカーテンには換気用の通気口が開けられ、国鉄時代を思い起こさせる装備が残っていた。
ちなみにパンタグラフの下のみ2段式になっていて、この部分は3段式よりも人気があった。
3段という寝台列車は、修学旅行などの団体旅行向きと言えた。一方で、運転最終年が近づくにつれて、密な空間での旅行を嫌う利用者も増えていったように思う。583系が登場したころとは、それこそ旅のスタイルが大きく変わってしまったのである。
【名列車の記録⑦】下りは日本海の景色を眺めつつ新潟を目指した
急行列車ゆえに、上り下りともに31駅に停車して走った。下りは大阪駅を23時32分発で、大阪や京都から、滋賀県内や北陸の家へ、また上りは新潟駅を22時58分発で新潟県内の家へ帰るのに最適な列車でもあった。
さらに、夜に走りながら途中駅で適度に時間調整をして走っていた。明け方には下り列車ならば新潟県内で、また上り列車では近畿圏内で早朝に走る通勤列車として活用された。
下り列車の場合には親不知駅の通過が5時20分で、日の長い季節には日本海が見えるようになる。さらに、糸魚川駅を5時29分に発車、直江津駅(6時17分発)までの間、有間川駅〜谷浜駅(5時50分通過)間で、雄大な日本海の眺望に出会えた。さらに柿崎駅(6時30分発)付近からは線路のすぐ横に日本海が見えた。海景色は鯨波駅(6時41分通過)まで楽しめた。
柏崎駅(6時45分発)から先は、内陸を走るようになるが、左右に米どころ新潟平野ならではの田園風景が楽しめた。新潟駅が近づくにつれて、通勤・通学客が増えていき、座席車には立って乗り込む人も目立った。そして終着、新潟駅に8時29分に到着するのだった。
【名列車の記録⑧】上りは東海道本線の通勤の足として生かされた
急行「きたぐに」は、大阪発の他の特急がバイパス線ともいうべく湖西線経由だったのに対して、米原駅経由で走ったことも特徴と言えた。
下りは米原駅着0時54分、北陸本線の長浜駅には1時14分着だった。いま北陸本線の長浜駅を発着する深夜便がない。一方、上りは長浜駅5時13分発、米原駅5時22分発で、大阪駅に早朝に到着したい通勤・通学客には最適な列車だった。
ちなみに、現在の米原駅発の大阪方面行き始発は4時58分発で、この列車を利用すれば6時44分(「きたぐに」到着は6時43分)に大阪駅に到着する。北陸本線の長浜駅発で一番早い列車は6時ちょうどで、急行「きたぐに」があったころように、大阪へ早朝に着くことができなくなっている。また、米原駅から新大阪駅へ走る朝一番の東海道新幹線は米原駅7時ちょうどの発車で、この列車は大阪駅に7時33分と〝遅め〟に到着する。
急行「きたぐに」は早朝に大阪まで行きたい人にとって非常にありがたい存在だったのである。早朝に移動手段がなくなる駅も生じた。列車が消えた後に、この列車を利用した方たちはどうしているのだろうか。気になるところである。
上り「きたぐに」の車窓風景は、下りに比べるとそう大きな注目ポイントはなかったものの、朝の近江路を見ながらの旅が楽しめた。B寝台で長距離を眠って移動する人がいる一方で、座席車は通勤・通学の足として役立てられた、2つの側面を持つ急行「きたぐに」ならではの日常の風景が長年にわたり日々繰り返されていた。
そうした風景も、もはや10年近く前のことになろうとしている。列車の移り変わりはまさしく走馬灯のようである。