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海外との電話やメールはもちろん、インターネット、SNSのやり取りも、今では気軽に行えるようになった。国際通信は飛躍的に便利になったが、その裏には先人たちの挑戦の歴史があった。その軌跡が東京・多摩市にある「KDDI MUSEUM(KDDIミュージアム)」に残されている。

「KDDI MUSEUM」は、約150年にわたる日本の国際通信の歴史を実物の機器や資料で解説するほか、歴代のau携帯電話とスマートフォンを一堂に展示、最新の5G&IoT技術も体験できる施設である。

「KDDI MUSEUM(KDDIミュージアム)」

日本における国際通信は1871年(明治4年)に開始し、2021年はその150年目の節目となる。そこで、国際通信の歴史や変遷を、「①日本の国際通信のはじまり」「②長波から短波へ~電波が世界をつなぐ」「③宇宙への挑戦、衛星通信」「④大容量光海底ケーブル時代」の4回の連載に分けて、「KDDI MUSEUM」の展示とともに紹介する。

1871年、日本の国際通信の幕開け

今回のテーマは、「①日本の国際通信のはじまり」。国際通信についての歴史はもちろん、当時の国際通信がどのような目的で使用されていたのか、通信料はどれくらいだったのかなどについて解説していこう。

そもそも、海を越えての国際通信が可能になったのは1851年のこと。当時の国際通信は文字などを電気信号に変えて伝送する「電信」で、海底に敷設した海底電信ケーブルを使用した。

世界初の海底電信ケーブルは、1851年にイギリス〜フランス間のドーバー海峡に敷設された。1866年にはイギリス〜アメリカ間を結ぶ大西洋横断ケーブルが完成し、イギリスをはじめとした欧米諸国は、海底電信網を大西洋、地中海、インド洋へと急速に拡張しはじめる。

実際に使用された海底電信ケーブル実際に使用された海底電信ケーブル。(左)長崎~上海間に敷設された海底電信ケーブル、(右)長崎~上海間、長崎~ウラジオストク間で使用された各種ケーブル

一方、日本の国際通信は1871年(明治4年)、デンマークの大北電信会社(The Great Northern Telegraph. Co.)が長崎~上海、長崎~ウラジオストク(ロシア)間をつなぐ長距離海底電信ケーブルを敷設したことからはじまった。その背景には、当時の清国(中国)が欧米諸国からの電信技術の導入や海底電信ケーブルの陸揚げを拒んだことなどがある。日本はヨーロッパから清国へアクセスするための中継地点として選ばれ、結果として当時の国際通信ネットワークに組み込まれたのだ。世界初の海底電信ケーブル敷設から20年後のことである。

長崎~上海、長崎~ウラジオストク間をつなぐ海底電信ケーブル

ちなみに、日本に電信技術をもたらしたのは、実はあの「黒船」だ。1854年に黒船を率いるペリー提督がアメリカ大統領から江戸幕府への献上品のひとつとしてエンボッシング・モールス電信機を持参。当時の世界最先端技術の電信をデモンストレーションし、開国のメリットを江戸幕府に訴えたのだ。

静岡県下田市のペリー上陸記念公園にあるペリー提督の像静岡県下田市のペリー上陸記念公園にあるペリー提督の像

ペリー提督が徳川幕府に献上したエンボッシング・モールス電信機の複製ペリー提督が徳川幕府に献上したエンボッシング・モールス電信機の複製

この時代の「電信」は、モールス符号による、いわゆる「トン・ツー」のこと。エンボッシング・モールス電信機は、送信側の電信機の電鍵でモールス符号を打つと、受信側の電信機の紙テープに凹凸の傷がつき、文字情報を送ることができるというものだ。

ちなみに、日本で最初に電信線(電信の信号を伝達する導線)が架設されたのは1869年(明治2年)で、横浜弁天の灯明台役所から横浜裁判所までの約800mだ。同年、東京〜横浜間にも電信線が架設され、電信事業が開始された。その後、国内の陸上電信線の架設が本格化。欧米先進国の文明が荒波のように押し寄せるなか、近代化を急ぐ日本は、初の電信線架設からわずか10年後には、全国の主要都市を結ぶ電信網を完成させた。これにより、長崎に届いた海外からの電報を素早く全国へ届けることが可能になったのだ。

電信局が描かれた浮世絵。1869年。(郵政博物館収蔵)伝信局が描かれた浮世絵。左下入口に旧字で書かれた「伝信局」の文字が見える。1869年。(郵政博物館収蔵)

海底電信ケーブルと陸上の電信線をつなげる「ケーブルハット」

日本と海外との国際通信を行うため、長崎の小ヶ倉千本(現・長崎市)に建てられたのが、海底線陸揚庫、通称「ケーブルハット」だ。

長崎県に建てられたケーブルハット

ケーブルハットは、海底に敷設された海底電信ケーブルと陸上の電信線をつなげるための施設。上海、ウラジオストクから延びる海底電信ケーブルはこのケーブルハットに陸揚げされ、信号は電信線を伝って長崎市内の電信局へ届けられる仕組みだ。嵐などの影響で電信線が切れてしまったときは、電信局の予備通信席として電信の送受信もここで行った。

「ケーブルハット」の仕組み

当時は、海底電信ケーブルから伝わってくる微弱な電気信号を受けた電磁石が針を動かし、モールス信号の波形を紙テープに記録していった。その紙テープに記録された波形を解読して文字に置き換えていた。

「ケーブルハット」の復元(KDDI MUSEUM所蔵)「ケーブルハット」の復元

この長崎のケーブルハットは1969年まで使用され、約100年間にわたって日本と世界をつなぐ重要な役割を果たすこととなる。

ケーブルハット内の通信施設

海底電信ケーブルの絶縁体はゴルフボールや歯科治療にも!?

ここからは、国際通信の研究者である大野哲弥さんに、150年前の国際通信に関する素朴な疑問について、KDDI MUSEUMで行ったインタビューを掲載する。

国際通信の研究者の大野哲弥さん国際通信の研究者の大野哲弥さん

——長崎からウラジオストクまで、1,000kmを超える長い距離があります。明治初期にはどのようにして海底電信ケーブルを敷設したのでしょうか?

「海の中を通る海底電信ケーブルは、漏電などが起こらないように、電気を通さない物質で電線を覆って絶縁処理をする必要があります。19世紀中頃には、試行錯誤のうえ、『ガタパーチャ』という樹木からとれるゴムに似た樹脂を使用し、絶縁処理された海底電信ケーブルが実用化されました。ガタパーチャは、かつてゴルフボールにも使用され、いまでは歯科治療用の充填材として利用されています。当時は軍艦の船尾に滑車を取り付けて、そこから海底電信ケーブルを垂らして、海底へと降ろしながら進んだようです。

大西洋横断ケーブルは1866年に開通しましたが、そこに至るまでには、信号の減衰が激しいからと電圧を強くし過ぎてケーブルを破損したり、ケーブルの長さを間違えて陸揚げ寸前で海底電信ケーブルが足りなくなったりと、多くの挑戦と失敗を繰り返して、ようやく完成しました。通信という見えない技術のために海底電信ケーブルを敷くのは一種の博打のようなもので、先人たちの並々ならぬ努力があったのだと思います」

日本から海底電信ケーブルを敷設する船。1906年(『海底線百年の歩み』)日本から海底電信ケーブルを敷設する船。1906年(『海底線百年の歩み』)

——こうして長崎に海底電信ケーブルが陸揚げされ、1871年に日本の国際通信がはじまりましたが、当時はどのような目的で利用されていたのですか?

「当時の国際通信は商用利用がメインでした。開国したばかりの日本は、長崎や横浜、神戸などの居留地にしか外国人が住めない状態です。外国の商社による利用が中心で、日本人で関わったのは商社の電信担当として、というケースが多かったと思います。一般市民が国際通信を利用することは、ほとんどありませんでした。

同時に、国際通信を使用して海外のニュースが新聞に掲載されるようになりました。ちなみに、当時、大北電信会社の通信士であったフレデリック・コルヴィは、同時にイギリスの通信社・ロイター※の記者としても日本で起こったことを配信していました。彼は国際通信に携わることで、メディアの仕事も行うことができたのです」

※世界4大通信社のひとつ

20語で数十万円!?超高価な150年前の国際通信

——国際通信がはじまったばかりの日本では、料金はどれくらいだったのでしょうか?

国際通信の研究者の大野哲弥さん

「1872年の国際電報料金は、欧文20語までが基本料金で、それを超えると10語ごとに加算される方法でした。当時、長崎からロンドンまでの電報料金は、20語までが26.5円です。当時の26.5円というのは、現在の水準では数十万円相当になります。個人利用はもとより、法人利用でも頻繁に使えない水準でした」

——たとえば、「Nice to meet you(はじめまして)」は4語あります。基本料金内ですので、長崎〜ロンドン間の場合、これだけで現代なら数十万円はかかる計算です。

「国際電報料金は高価なため、『コード』が発展しました。たとえば『この案件は成立した』という文章があれば、11番とコードをふる。これで11と打てば交渉が成立したことを相手に伝えることができます。当時は市販のコードブックや、商社が独自のコードをつくるなど、工夫しながら国際通信を行っていました。

当時の国際通信は、文字や符号でやり取りするという点では、現在のメールのようなものです。大きく違うのは、海外からの電信は電報局までしか届かず、そこからは人手で配達する必要があったという点。海外の友人ともスマホでダイレクトにやり取りができる現在は、いわば“みんなが電報局を持っている”ようなものです。人手を介さず、相手に直接つながる現在の通信は、当時から考えるときっと夢のような話でしょうね」

今から約150年前、上海とウラジオストクから延びる海底電信ケーブルが長崎につながったことにより、日本の国際通信はスタートした。当時は高価で個人利用がほとんどなかった国際通信は、その後いかにして身近な存在になっていくのだろう。時代は明治から大正に移り、国際社会も通信技術も大きく変わろうとしていた。次のテーマは「長波から短波へ~電波が世界をつなぐ」、無線通信の興隆を紹介する。

国際通信150年を記念し、東京銀座にある『GINZA 456』で、日本文化の象徴であり世界的にも高く評価されている「葛飾北斎の浮世絵」を新感覚アートとしてお楽しみいただける体験イベントを開催予定です。

■HOKUSAI REMIX
・体験期間: 2021年10月1日(金)~2022年1月中旬予定
・利用料: 無料
・予約: 下記サイトにて受付中
・公式サイト:https://ginza456.kddi.com/contents/hokusai-remix/
※予約方法や体験内容の詳細は、公式サイトにてご確認ください。

KDDIのコンセプトショップGINZA456で体験できるHOKUSAI REMIXのイベント
KDDIのコンセプトショップGINZA456で体験できるHOKUSAI REMIXのイベント

大野哲弥さん

1956年、東京生まれ。立教大学経済学部卒業、放送大学大学院文化科学研究科修士課程修了。博士(コミュニケーション学/東京経済大学)。1980年、国際電信電話株式会社(KDD)入社。退職後、放送大学非常勤講師などを歴任。著書に『通信の世紀 情報技術と国家戦略の一五〇年史』(新潮社)、『国際通信史でみる明治日本』(成文社)。