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望月たか子(旧姓・沢野)=1988年撮影

 コロナ禍で飲食店の自粛が問題になる一方、文化活動の停滞はあまり騒がれない。大きなイベントだけでなく、数十人規模の読書会やグループ活動が次々に中止になっている。わたしが関わっているささやかな集まりや勉強会だけでも、かなりの数にのぼる。(女性史研究者=江刺昭子)

 公的な施設が閉鎖されたり、人数や使用時間が厳しく制限されたりしている上に、住民が互いに監視しあっての自粛ムードも強い。国や自治体による文化統制のようでもある。

 形は違うが、戦時下の思想統制とそのための弾圧を想起する。最大の弾圧は1942年に始まる横浜事件であろう。警察が出版人ら約60人を治安維持法違反で検挙、共産党再建をはかったとして事件をフレームアップし、敗戦直後のどさくさで有罪にした。刑事裁判の再審で「免訴」となり、国家賠償請求訴訟も提起されて、関係者による記録も多い。

 しかし、横浜事件の先駆けとされる「浪曼(ろまん)事件」については、あまり知られておらず、詳細は不明のままだ。同じ神奈川県警察特別高等課(特高)が指揮し、思想弾圧のテストケースにしたとされる。どんな事件だったのか。

 太平洋戦争開戦前夜の1941年11月17日、文芸雑誌『浪曼』の同人たちの家に特高警察が踏み込み、警察に連行し、厳しい取調べをした。しかし、検挙者の数さえはっきりしない。資料によって「21人」「三十数人」などとまちまち。獄死者も数人出た。

 『浪曼』発刊に至る前史を探ると、事件の1年8カ月前、40年3月11日の神奈川県の地元紙『横浜貿易新報』(後の「神奈川新聞」)の記事に行き当たる。記者が出征して人手が足りなくなったのか、「学芸欄を横浜文壇の進歩向上に資したいと提案」し、「ハマ文壇の精華、一堂に集めた盛会〝海港文学の会〟結成」と報じている。

 以後、ほぼ毎日、横浜貿易新報の学芸欄は、文学サークルの同人たちの発表舞台になった。中心は横浜在住の人気作家、北林透馬(とうま)だった。

 7月には2回にわたって「ろまん特集」があり、作家の望月義(よし)が「野上文雄」のペンネームで同人誌「ろまん」を創刊することになったいきさつを書いている。

 漠とした不安な時代に青年たちが萎縮しているが、時代の波浪を乗りきるために、できるだけ多くの人が集って横浜の代表的な文学雑誌を作ろうではないか。そう呼びかけた。

 とはいえ、望月はかつて日本プロレタリア作家同盟に属していた。プロレタリア文学は労働者の過酷な現実を描き、資本主義にあらがうものだったから、普通の文学青年、文学少女は付いてこないと思ったのかもしれない。当局とのやりとりまで明かし、「県の特高課へ行って同人雑誌をさせてもらえるかどうか」聞いて、「真面目にやるならよろしい」という意向だったと述べている。

『浪曼』創刊号

 そして、9月には誌名を『ろまん』ではなく『浪曼』に変えて創刊号が出た。表紙は兵士の絵。「創刊の辞」も「われわれ、ペンの力に軒昂(けんこう)たる文化の精神をみとめる者たちは、微力なりとも、あたらしい力、あたらしい文化の建設に、ともに渾身(こんしん)の進撃をはじめようではないか」とあり、時局に迎合した主張と読める。

 この間に「海港文学の会」は解散し、所属していた文学サークルの多くは「浪曼グループ」に吸収されるが、モダニズム文学の旗手である北林から、左翼作家望月への引き継ぎの理由説明はない。

 『浪曼』はこのあと3号まで出して、4号(41年4月)で『神奈川文学』と改題するとともに「神奈川文化翼賛連盟」(文化部長は作家・島木健作)に参加したが、これが最後になった。4号のうち現存する3冊を見ても、官憲が問題にするような作品は見当たらない。同人は100人を越し、大半は左派とは関係のない文学青年・少女である。

 それなのに事件は起きた。

 望月義と同居していた沢野たか子は、銀行の電話交換手をしていた。19歳の文学少女で、『浪曼』に短編小説を書いたり、編集を手伝ったりしているうちに望月を好きになり、家出同然に一緒に暮らして7カ月、望月とともに身柄を拘束され、別々の警察署に留置された。

望月義とたか子=1940年頃

 本人の回想によれば、取り調べで「小林多喜二を読んだろう」と言われても名前も知らない。治安維持法という法律も聞いたことがない。39日後に釈放され、望月の差し入れに通った。望月は起訴され、44年末に懲役2年執行猶予3年で出獄したが、すぐに召集令状(赤紙)が来て戦地に送られた。

 無事帰還して、戦後は夫妻ともに共産党に入党して文化活動に従事。望月が『ダライノール』、『卑弥呼』などを出版するのと並行して、夫妻で熱心に自然保護運動にも取り組んだ。「尾瀬の自然を守る会神奈川県支部」を立ち上げ、機関誌『三平峠(さんぺいとうげ)』と『山ゆり』合わせて79冊を刊行している。

 望月は85年に亡くなり、2年後に遺稿『横浜物語』が出版された。たか子(小説中では藤沢朝子)の視点で、ほぼ事実に即して浪曼事件前後が描かれている。当事者が書いた最も詳しい記録小説であり、突然検挙され、共産主義の宣伝をしたんだろうと責められた文学青年・少女たちの苦しみが伝わってくる。

 たか子がインタビューで語っている(情報誌『有鄰』88年2月10日「『浪曼』事件のこと」)。

 ―『浪曼』事件で寿署に四十日間留置されて私は、戦争の前に、思想・言論の弾圧があることを知りました。素手でなま身の人間は、国家の権力、警察、監獄等で自由を抑えこまれたらとても弱い。すべての人でないとしても、十九才だった私は弱かった。どんなに多くの人々の羽搏(はばた)こうとする人生の大切な歳月を、若々しい清新な魂と肉体が、むごく扱われたか、それこそが『浪曼』事件と、わたしはいいたい―

 新型コロナ禍による文化活動の停滞は、むきだしの権力による弾圧とは表面的には異なるが、ウイルスの脅威の前で「清新な魂と肉体がむごく扱われ」ているという点では共通するだろう。失われ、損なわれていくものを注意深く見つめ、少しでも回復するために、何をするべきか考えたい。