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この年末に公開されている「Matrix(マトリックス)」の新作は、ちょっとした失敗だったように思う。アクション、キャラクター、テンポ、ビジュアルなどは、ほとんどの面でしくじっていた。だが意外な点で成功していた。テクノロジーと私たちの関係について、説得力のある内容を提示している。

(この先「The Matrix:Resurrection(マトリックス レザレクションズ)」のネタバレがあるのでご注意を)

私たちの住む世界は現実ではない、というオリジナルの「マトリックス」の前提は、独創的とはいえなかった。だが、それを深くSF的にアレンジしたもの、つまり、シミュレーションを使った大衆受け狙いの「ターミネーター的ロボカリプス」は、説得力があり、上々の出来だった。当時、スマートフォンは存在せず(それゆえ、スマートフォンへの不健全な依存もなかった)、ロボットは初歩的、AIはまだSF的で、ソーシャルメディアといえばICQとチャットルームという時代であった。「Oh, blessed ignorance(無知は幸いだ)」。

つまり、恐怖や脅威がテクノロジーから生まれるというのは、表面的な見方にすぎない。人類を生きた電池に変えてしまったのが、たまたま機械だったというだけだ。結局のところ、パラノイア(極度の心配性)が不安に思ってきたのは、(秘密結社)イルミナティが世界の真実を隠しているということであり、その考えは何世紀も前にさかのぼる。

「レザレクションズ」は違う。「マトリックス」が公開後の20年間で出現したスマートフォン、AI、ソーシャルメディアなどは、単に影響力のあるテクノロジーというだけにとどまらず、それらによって可能になるものと、それらがもたらす新たな恐怖の両方において、この時代を特徴づけた。

画像クレジット:Warner Bros Pictures

「レザレクションズ」が描く根本的な脅威は、完全な欺瞞ではなく、標的を定めた偽情報だ。これはおそらく、現代における最も明白で差し迫った危険だ。その解決策は、これまでのシリーズで示されてきたように、単にベールを突き破ることではなく、純粋に、人間らしく、他者と調和し、対話しながら生きることだ。

映画の冒頭で主人公たちが置かれた状況は、私たちが陥るかもしれない罠を象徴している。オリジナル3部作がゲームのシリーズとしてメタ的に再構成されていることは、初めのうちは説得力がある。それは、半分は真実であって、嘘よりも説得力がある。称賛されながらも、仕事面でも創作面でも行き詰まったネオは、ゲームを現実として認識してしまう不健康な状態を治すためにセラピーを受けている。トリニティは、最も抵抗の少ない道として快適な日常を過ごしている。そして(新)モーフィアスは、逃れられないエコーチェンバーの中で生きている。

こうしたアイデアを、ソーシャルメディアに内在する最も悲惨な脅威である自己欺瞞、ドゥームスクローリング(悪いニュースばかりをネットで探すこと)、過激化と結びつけるのはまったく難しいことではない。ここでの「機械」は影響を及ぼす機械だ。その機械は、機械の考えが私たち自身の考えだと思わせるのだ。

これはもはや「これは現実の世界ではない」というより「私の考えは本当は私自身の考えではない」ということなのだ。自分自身の考えでないなら、誰の考えなのか。その問いに答えれば、あなたは抑圧者を見つけることができる。

他でも、私たちは「自分で考える」というアプローチに失敗していることがわかる。現実世界という「外側」で、人類は行き詰っている。革命的なオリジナルのモーフィアスはいなくなり、新しいリーダーは終末的な脅威に直面し、リスク回避のために足踏みしている。前進するために必要な大胆な行動をとることができない、非力な政府の姿が目に浮かぶ。

倉庫の中には、たとえ不格好であっても、Mervを完全に拒絶する、ある種のネオフォビア(シャレで、意図的に)的ブーマーのメンタリティーがあるのだ。「私たちには優雅さがあった、スタイルがあった、会話があった、これは違う、ピーピーピー! 芸術も、映画も、本も、すべて優れていた! オリジナリティが大事だった!」。彼は、偉大だと思われていた過ぎ去った時代に戻りたがっている。泣き虫で屈辱的な野蛮人が、自分の適応能力のなさをテクノロジーのせいにしているのだ。

そして最後に、機械たちの内戦の存在がある。持続不可能でありながら止められず、自分自身を食べ始めてしまう。

「レザレクションズ」が進むべき道として提示するのは、ある意味で陳腐な「みんなで力を合わせよう」だ。しかし、その背後にある意味が、目的を持ったメッセージでそれ自体を豊かにしている。共通の敵は本来テクノロジーに関わるものだが、テクノロジーそのものではない。もしあなたが自分自身の心の牢獄に閉じ込められているのなら、脱出は幻想だ。

この映画で重要なポイントは、私たちが自らのために採用したプログラミングを拒否すること。それが、ハイテクな敵が悪意により意図的に作ったものであれ、自己反省の欠如によってより自然にたどり着いたものであれだ。

共存こそが私たちの進むべき道であり、そのためには相手に対する自分自身の先入観を疑わなくてはならない。人間と憎き機械が共存できるとは、ネオにとっては衝撃的だ。政治的な側面から深読みするのはやめよう。筆者は、これが超党派主義の寓話だとは思わない。むしろ、映画で使われた新しい用語について考える。彼らはロボットではなく「synthient(シンシエント)」だ。これは愉快な混成語で、若干手を加えることにより、代名詞と表示の問題を反映している。ジェンダーの様相は連続している。意識がそうでないと言えるだろうか。

「レザレクションズ」では他者との共存こそが唯一の現実的な道だ。ロボットと人間がこの星を共有しなければならない「現実世界」においても、AIさえも自分の役割と主体性を押しつぶされるように管理されて息苦しくなる「マトリックス」においてもだ。

最後に必ずやってくる「愛はすべてに勝つ」という瞬間とその後の大げさなアクションシーンの後、最後の対決が1つの視点を提供した。人間に自らを縛る縄を与えた「アナリスト」は、その方が人間は幸せになれるという。ネオとトリニティは、人々が自ら選んでその上を走っているとされる、テクノロジーのトレッドミルが機能するのは、真のつながりと真の喜びを妨げるように設計されているからこそだという。

独我論的な野蛮人や楽天的な受動的リーダーシップとは程遠く「レザレクションズ」は人々が自由に学び、成長できる包摂的で協力的な世界を支持する。なぜなら、人々を無知にし、分裂させていたツールと実体は、光とつながりをもたらすものと同じだからだ。

アクション映画としては、Lana Wachowski(ラナ・ウォシャウスキー)監督の作品はめちゃくちゃで、崩壊寸前だ。(筆者は口直しに「コマンドー」を観た)。しかし、そのあやしい出来映えはともかく、この映画が描く混乱こそがメッセージなのだ。この映画には、私たち自身と現代のジレンマが不穏なほど正確に描かれている。監督は、私たちが、世界をではなく、自らが課した限界を疑えば、もっと多くのことができると思っている。その信念が、監督が提案する「赤いピル」なのだ。

画像クレジット:Warner Bros Pictures

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(文:Devin Coldewey、翻訳:Nariko Mizoguchi