オリンピックのシーズンになった。
僕はそんなにスポーツが好きな方ではないので、それほど関心はないんだけど(^_^;)
開会式、体操、新体操、シンクロナイズド・スイミング、あと飛び込み(シンクロナイズド・ダイビング)が見られれば満足(笑)
今は深夜に体操の試合を観ながらこの記事を書いている。
オリンピックの陰に隠れて報道が減った(と思われる)のが滋賀県のいじめ関連の一連の報道だ。もちろん、実際に騒ぎになっていた時には日本にいなかったから、ネットを通じてしか情報は得ていないけれど。この一件は僕に色々なことを考えさせた。
考えたことをまとめたくて何度も記事を書こうとしてるんだけど、内容が多岐にわたりすぎてどこから始めたらいいのか分からない。
僕は何も「いじめは悪いことだからやめるべき」なんて当たり前のことを書きたいわけではない。
小学校の頃「どうしたらいじめはなくなるか」みたいなことをクラスで話し合わされたことがある。その時僕は「いじめは決してなくなることはない。だからいじめられる側がどうにかして自分を守るしかないのではないか。」というような事を発言したらこっぴどく叱られた。
先生曰く「お前のようなことを言う奴がいるからいじめはいつまで経ってもなくならないのだ」と。
いじめは、要するに「悪意」の塊だ。
そして「悪意」というのは、人間が持っているあらゆる感情の中で、最も危険で最も恐ろしい感情だと思っている。
原因は何であれ、一度誰かに向けられた「悪意」はとどまることを知らない。どこまでも執拗に、それこそ誰かを死に至らしめるまで止まることはない。
そして本当によく練られた「悪意」は、巧妙にその姿を隠すものだ。
幸いなことに、自分の周りにはそんな悪意を持った人はいないといっていい。基本的に僕は自分の周りにいるひとは信頼してるし、信頼できる人にしか近寄らないようにしてるつもりだから。
しかしこのいじめ騒動のケースを見ていて、もうひとつの巨大な悪意に気がついた。それが「ネット上の悪意」である。
いじめた子は確かに悪い。
しかし、いじめた子供の顔写真や本名、両親や親族の名前をインターネットで探し回って晒し上げて喜んでいる人達の心の中にあるものが、いじめた子供の心の中にあったものと同じでないとどうして言えるだろうか。
悪意に取り憑かれた、それも不特定多数の集団、というのはもっと恐ろしい。
こんな事は、本来何も特別なことではないのかも知れない。
たとえばこのブログだって、何らかの意図を持った人が精査すれば僕の素性を暴くことなんていとも簡単なのだろう。
僕がどんな人物なのか、どこに住んでいるのか、何をしているのか、見るひとが見れば一発だし、仮に僕の素性を知る人物が僕を陥れようと考えたとしたら、このブログをいい具合に利用することだって出来るはずだ。
それを防ぐ術はきっとないのだと思う。
あえて誰もしないのは、ネット上の人間関係が「基本的にはみんないい人だ」という前提の上に成り立っているからなのだと思う。基本的にはそんなメリットもないし。
実際、気をつけていればネット上で知りあった人物と実際に会うなんて事は容易だ。僕も何度かそうした事をしているけれど、今のところ特に危ない目に遭った事はない。
もし仮に、何か悪意を持った人物がそれを巧妙に隠しながら近づいてきたら、と考えないでもないけど、それはそれ。
もはや防ぎようがないではないか。
悪意はどこから飛んでくるか分からない。例えて言うなら真っ昼間の大通りに突如現れた通り魔みたいなものだ。ナイフをもってこっちに突進されたら、もうどうしようもないではないか。
いじめの話から始めたのに、やっぱりまとまらない。《悪意》に関してはまた書くかもしれない。
とにかく、他人から自分に向けられる悪意は止めようがないということ。そして巨大すぎる悪意の前には、ネットの匿名性なんてほぼないに等しいことはよく覚えておいた方がいいと思う。