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ここ1週間ほど『Apex Legends』をプレイしている。人として大切なものをはるか昔に忘れたパスファインダーで縦横無尽にマップを駆け巡り、1v3を仕掛けて勝てるのはシルバーまでで、とうとうゴールドからスタックするようになり、ともにプレイしている友人たちのねばり強い説得に折れて、ジブラルタルに転向した。のべ15時間ほどプレイしてプラチナまで上がったが、あとはグラインド――堅実なプレイを固持してRNG(ランダム生成)の神に供物を捧げる行為――を続ければ、マスターくらいまでは上がると思う。どうすればランクが上がるのかは、わかっているからだ。

このゲームの戦闘は、抜群に面白い。すべての武器の使用感が洗練されていて、それぞれに強みがあり、理想的な地形や交戦距離に武器の特性がぴたりとはまったときなどには、こたえがたい快感をもたらしてくれる。キルタイムの長さとキャラクタースプライトの移動の速さが、空間と時間の等価交換の概念を拡大していて、ほかのゲームではあり得ないような大胆なLOSの確保、フランクなどを可能にしている。これが戦略的な快感を生み、ますますゲームのとりこにさせられる。

もともと、わたしはスポーツ系のFPSが大好きだ。Quake、W:ET、TF2、Overwatch、そういった類いのものである。とはいえ、わたしはこのゲームを心から好きになることはない。

戦略上もっとも厳しいポジションにRNGによって配置された哀れなパスファインダーが、周囲の安全とチャージライフルの不在を確認したのち、残された安全地帯のなかでもっとも優れたポジションにジップラインを張り、そこへ向かっていく。考え得る限り最高の動きだと思うし、かつてはおなじパスファインダー・メインだった者として、わたしはかれのゲーム・センスを誇らしいく感じる。

しかし、わたしは今の今までひた隠しにしていたチャージライフルを持っているし、わたしのスクワッドはずっとハイドしていた。彼らのスクワッドにはクリプトもブラッドハウンドもいなかった。たまたま、そうなってしまった。わたしはチャージライフルを二発ヘッドに当てて、彼のダウンを取る。RPをおごってくれてありがとう、ごちそうさまでした。

これが現状、日本でもっとも流行っているスポーツ系FPSの姿である。これはこれ、それはそれ。あくびが止まらなくなるルート・ルーチンを済ませ、うろうろとマップを移動し、ポジショニングを選びつづける20数分間、あらゆる流れの計算が一発の横やりで反故になるかもしれない以上、絶対に必要なディフェンシブなプレイを続けること。それこそが、このゲームが設定した勝利条件――最後の一人になるまで生き延びる――を達成するために、もっとも的確な行動である。

わたしが懸念しているのは、この作品が若い世代に与える影響だ。

あらゆるゲームの価値は、プレイヤーが自らの力を振るって、そのルールの枠内で、運命を切り拓いていくことにある。

われわれの現実は混沌としている。ある子供の大学進学率がかれの家庭の収入と比例するような社会、女に生まれたから、黒人に生まれたからというだけで余人から後回しにされる社会。われわれは、この社会を良きものにしようと、何度も挑戦してきた。その過程で、成功しようとも失敗しようとも等しく、傷ついてきた。

だからこそ、われわれはゲームを――マジック・サークルを考え出した。

それは戦いの形式を取り、公平さがわたしたちの傷を癒やす。

この世界のある一部の、限られたルールの内側における出来事だ。しかし、その小さなインスタンスのなかにおいてさえ――いや、小さなインスタンスの限定された条件下であるからこそ、運命を切り拓く行為には、傷ついた人間の魂を回復し、強靱なものにする力がある。これがスポーツの力、ゲームの力である。

わたしたちはこの虚構の盾の内側で、ほんとうの意味で楽しみながら、努力する。昨日よりも良いエイムを、良い立ち回りを、良い戦略的思考を求めてだ。その努力は、現実社会とは異なり、確実に報われる。誰かが横からサード・パーティーして、手柄を自分のものにすることはない。

それは無形の報奨で、あなたがどんな人間であるかに左右されない。どのような宗教を持とうとも、どのような政治観を持っていようとも、ゲームの盤上に立てばひとりのプレイヤーだ。かりにわたしが『Quake Champions』でアドルフ・ヒトラーとガチンコの1v1をやることになったとしても、わたしはかれを、たんなるひとりのプレイヤーとして見るだろう。これこそが対人型ゲームの浄福である。

もちろん、われわれはわかっている。ここは一時の宿り木、憩いの場に過ぎない。ここで勝ったからといって、愛する人の不治の病が寛解するわけではない。地球の裏側で飢えにあえぐ誰かを救えるわけでもない。だからこのゲームが終わったら、わたしたちは立ち上がって、それぞれの仕事を行うために、外へ出て行かなければならない。

しかしながら、そうした社会の荒波に立ち向かっていくための強さを、誇りを育むために、わたしたちはゲームをプレイするのではなかったか。

『Apex Legends』におけるサード・パーティーは、プレイヤーの魂を傷つける。やられた側だけが傷つくのではない、やる側も傷つく。スクワッドとスクワッドのダメージ計算とポジショニングから来る肉体的かつ数学的な至福のうねりは、たった一発のチャージライフルの横やり、キルログから計算された別スクのプッシュによって、すべて反故になる。サード・パーティーをやる側も、それを反故にしたことをわかっている。わかっていながら、それをやらざるを得ない。わたしだってやる。そうすることが「正しい」こと、「勝つ」ために必要なことであるからだ。

このゲームで「勝つ」ための行為は、卑屈で、怯懦で、恥ずべきものだ。

みんな直ちにパスファインダーとオクタンをピックし、銃声を聴き次第すべてのクールダウンを吐きつつそちらへ全力疾走しろとアジっているわけではない。わたしはただ、スポーツ系FPSというジャンルの楽しみを見いだした若い世代に、知っておいてほしいのだ。

このゲームの勝利条件と、その達成のために必要な動きは、本質的に卑怯者のそれである。傷ついたスクワッドを食い物にし、サード・パーティーが突撃してくれば全てのクールダウンを吐いて逃走し、最終リングふたつ手前でポジションを確保したあとはハイドして煙草を喫い、最終リング収縮時の混乱で自分のスクワッドがダメージを受けないことを天に祈る。それが叶ったとき、「成功」した、ということになる。そう、われわれがこのいまいましい社会でやっていることと、まったくおなじなのである。

このようなけつの穴の小さい勝利条件に、心を惑わされている人は多くいる。当然だろう、他人を出し抜くことが「能力」と言われるような社会だ。このような体たらくになっていることを、わたしは年長者として恥ずかしく思うし、どうやって謝ればいいのかわからない。

覚えておいてほしい。この世には、あなたを食い物としてではなく、ひとりのプレイヤーとしてリスペクトする、愛を持った人々がいる。あなたが磨いてきたエイム、立ち回り、戦略的思考に対して、尊敬の念を持ちつつ全力でぶつかってきてくれる対戦相手がいる。

わたしはあなたに、そのような人間になってほしい。

このゲームは、やられたときの言い訳には事欠かない。状況に対して持っている武器が悪かった、自分が降りた建物にそもそも武器が落ちていなかった、建物や岩や崖のコリジョンがあまりにも駄作に過ぎて思ったようなキャラコンが出来なかった、クライアントベースで被弾処理が行われるために近距離戦でLOSを切ってから五万年後にダウンした、ノーレグした、最高にアツい1v1の途中でチャージライフルの横やりに殺された、味方がフィードした、安全地帯の出目が悪かった、発表からもう五年は経っているのにキャラクターモデルの上下方向への視線の表現が甘すぎて相手方の銃は水平に向いているように見えるのに真下に居る自分に向かって弾だけが直角に降りそそいできた、相手がパッド勢だったのでFPSの常識である真下/真上へのエイミング時のポールダンス現象が相手にだけ発生せず撃ち負けた、ライフラインのおだんご頭の髪の毛にまで当たり判定がぎっしり詰まっているせいでLOSが切れておらずチャージライフルにダウンさせられた、そこにサードパーティーが来た。

明確に自分のミスである判断と、本当にどうしようもない状況とが、バトル・ロイヤル形式の諸刃の剣によって混濁し、すべてをゲームのせいにしたくなる。

諸刃の剣の良い刃は、広大なマップ、安全地帯、敵方と相手方のキャラクターと武器の組み合わせによって、人間が一生涯をかけても汲み尽くせないほど豊富な戦闘のバリエーションが存在し、すべての戦闘があなたのプレイスキルを試す一点ものであること。

悪い刃は、そのバリエーションが、あなたのミスプレイではなく、ランダム要素の組み合わせの運によって、いとも簡単にあなたの交戦能力のスレッショルドを越えてしまうこと。

このようなゲームにおいて、相手をリスペクトし、その技術に感心せよと言うほうが、狂気の沙汰なのかもしれない。運が悪かった、卑怯者ばかりだ、この世は生きるに値しないと結論づける若者のほうが、きっと多いにちがいない。スポーツ系FPSの運命は、そもそもこうしたものだったのかもしれない。こんなふうにして人々は分断され、こういうゲームで勝つことが「能力」だと、みんなが考えるようになるのかもしれない。

しかし、わたしは知っている。たったいま起きたそのすばらしい戦闘のシークエンスは、あなたが心をこめて鍛え上げたエイムと立ち回り、戦略的思考がなければ、切り抜けられなかった。誰がなんと言おうとも、絶対にそうだった。

あなたはすばらしいプレイヤーなのだ。あなたこそがキャリーなのだ。わたしはあなたのその技術を尊敬するし、あなたはそれを誇りに思っていい。恥ずかしがる必要なんかない。あなたはすばらしい競技者なのだ。

運と技術をまぜこぜにするとき、われわれは魂を失う。リプレイ機能さえ持たないこのゲームは、ある失敗がほんとうにどうしようもない性質のものだったのか、それとも相手方のすばらしい技術に起因したのかどうかさえ、突き止めさせてくれない。そんな糞ゲーは、現実でじゅうぶんだ。

わたしは、このゲームでチャンピオンになったときでさえも、心から喜ぶことができない。自分の技術のたまものではなく、運が良かっただけだと、心のどこかで感じている。ここまで書いて、やっと言いたいことがわかった。わたしは運命に弄ばれた他人をうまく食い物にすることが技術であるようなゲームが、「ランク」制度を採用し、現実社会とかわりない不完全な能力主義をあおり立てていることがいやなのだ。

著者: “藤田祥平 — [source_domain]