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<かつての「台湾ニューシネマ」から、娯楽重視のエンタメ路線へ。変わる台湾映画ににじむ社会と政治と人々の変遷> 映画はスクリーンの中と外の2つの時をアーカイブする。1987年の戒厳令解除後、台湾人が自ら台湾史を撮り始めてから、わずか30年余り。映画が映し出すのは、あの時撮れなかった物語だけではない。今、人々はどんな物語を見たいのか、映画はその社会の欲望の証言者でもある。 現在日本で公開中のジョン・スー(徐漢強)監督『返校 言葉が消えた日』(2019年)は、戦後、国民党による恐怖政治が行われた白色テロ期の言論弾圧をホラーとして体感させるダーク・ミステリーだ。 舞台は戒厳令下の1962年。女子高生のファン・レイシンが教室で目を覚ますと誰もいない。廃墟となった校内で後輩の男子学生と出会い、2人は恐怖を追体験しながら真相を追っていく。当時、2人の教師と生徒たちが自由に関する禁書を読む秘密読書会を開いた。だが密告によりメンバーたちは逮捕され、ほとんどが処刑されたのだった。密告者は誰か……。 白色テロやその傷を描いた作品には、エドワード・ヤン監督の『牯嶺街少年殺人事件』(91年)、萬仁監督の『スーパーシチズン 超級大国民』(94年)などの名作があるが、『返校』はゲームの実写映画化で、若い視聴者をターゲットとしたエンタメであることが特徴的だ。 台湾では、17年に移行期正義促進条例が可決され、過去の国家による人権弾圧の真相を明らかにし、和解を目指す取り組みが始まった。若い世代に負の歴史を伝えようとする『返校』の創意に満ちた挑戦も、こうした台湾社会の動きと無関係ではない。 1895年に始まる日本の植民地支配は1945年に終わったが、台湾では国民党の一党独裁が続き、台湾人自らが台湾史を語るにはかなりの時間を待たねばならなかった。 記念碑的作品『悲情城市』 台湾現代史を撮った記念碑的作品といえば、ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した侯孝賢の『悲情城市』(89年)だろう。天皇の玉音放送が男児の産声に取って代わり、日本植民地支配の終焉を新しい台湾の誕生として語り始め、ある大家族が47年の2.28事件に翻弄され崩壊していく様子を、ロングショットで淡々と撮り続ける。そして沈黙の中、49年の国民政府の台湾への移転を示す字幕で終わる。 見逃せないのが劇中に台湾語、客家語、中国語、日本語など多言語を用い、当時の台湾の現状を複数の歴史の対決と混沌として撮っていることだ。こうしたリアルな多言語による多文化社会の表象は、『悲情城市』以降の台湾映画でスタンダードとなっていく。 候やヤンの作品は「台湾ニューシネマ」と呼ばれ、国際的な評価を得た。だが皮肉なことに、芸術性重視の作品が増えた結果、娯楽を求める台湾人観客の期待に応えられず、台湾人が見なくなった台湾映画は低迷し、製作本数は激減した。 ===== 『海角七号』の成功と先住民 08年、台湾映画は自らの歴史をエンタメとして語ることで再び息を吹き返す。そのきっかけが、日本の台湾からの引き揚げを日台の悲恋の物語とした魏徳聖監督の『海角七号 君想う、国境の南』(08年)だ。 日本人男性教師から台湾人女学生への「君にはわかるはず。君を捨てたのではなく、泣く泣く手放したということを」という独り善がりな言い訳に満ちたラブレターを、教師の死後に娘が見つけ、日本統治期の住所に投函するが、宛て先不明となる。 そんな中、ミュージシャンの夢破れ田舎に帰省し郵便配達のバイトをする台湾人青年の阿嘉が、モデルを目指す日本人女性のサポートにより手紙を届ける。 『海角七号』は、台湾映画史上最高の興行収入5億3000万元を記録。主役の阿嘉を演じた俳優は先住民(原住民)で、劇中においても先住民が重要な役で登場する。この作品の大ヒットは、台湾映画における新たな先住民イメージをつくり上げた。16年、蔡英文総統は、政府を代表して先住民たちにこれまでの不平等な扱いを謝罪し、多元的な台湾社会の最初の住人として先住民を尊重する姿勢を示した。 魏徳聖が先住民セデック族による日本統治期最大の抗日暴動である霧社事件を活劇化した『セデック・バレ』(11年)は、2部作合わせて4時間半の長編でありながら、第1部の興行収入は歴代第2位となる。 さらに魏が総指揮、馬志翔が監督を務め、1931年に嘉義農林学校野球部が甲子園で準優勝した実話を青春ドラマ化した『KANO 1931海の向こうの甲子園』(14年)も多くの観客を集めた。昨今、日本統治期は台湾映画のエンタメ素材の1つとなっている。 台湾史研究者の洪郁如は『誰の日本時代 ジェンダー・階層・帝国の台湾史』(法政大学出版局)で、親日として単純化され誤解されがちな台湾人の日本統治についての語りについて、「『われわれの過去』を明快に語れない苦しみそのものが、数世代にわたり刻印された植民地主義の傷痕である」と述べている。 ラブストーリーから抗日、スポ根まで、日本統治期を語る揺れ幅こそが、自分の歴史を語れなかった悲しみと、今更それをどう語ればよいのかさえも分からない傷痕の深さを表わしているのかもしれない。ちなみに、現在の台湾史の教科書では、約4分の1が日本統治期に関する記述だ。 ===== その後、台湾映画は多様な視点から饒舌に台湾史を語り始める。85年に高校生だった男女3人の27年間を描いた楊雅喆監督の『GF*BF』(12年)では、大学生たちが民主化を求めた90年の野百合学生運動が描かれる。友情に異性愛と同性愛を掛け合わせ、解けない三角関係の切なさが織り込まれた結末は、オルタナティブな家族像を提示し、同性婚合法化の未来を予感させる。 最後に紹介する傅榆監督の『私たちの青春、台湾』(17年)は、14年のひまわり学生運動のリーダーと、台湾の民主主義に興味を持ち社会運動に参加する中国人留学生を追ったドキュメンタリーだ。ひまわり学生運動は、台湾社会が若者を主権者として重視していくきっかけとなったと同時に、スクリーンの内外でチャイナファクターが顕在化した出来事でもあった。 この作品は台湾版アカデミー賞といわれる金馬奨で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞したが、「いつか私たちの国が真の独立した個として見られることが、台湾人として最大の願いです」という傅監督の受賞スピーチは物議を醸し、中国からのゲストたちは受賞後のパーティーに参加拒否した。 翌19 年から中国最高の映画祭である中国電影金鶏奨が金馬奨と同じ時期に開催されるようになり、中国からの作品および映画関係者の参加は事実上不可能となった。台湾映画界は今、チャイナファクターを前に新たな道を探りつつある。