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<子供を失った悲しみと警察の不十分な対応が、犯罪捜査番組と多くの正義を生んだ> 1981年7月27日、私の家族は永遠に変わってしまった。その日、妻のルベは6歳の息子アダムと、フロリダ州ハリウッドのデパートで買い物をしていた。正午過ぎ、見本の家庭用ゲーム機で遊ぶ子供たちを見ているアダムを置いて、妻はその場を離れた。安全な場所のはずだった。 だが数分後に戻ってくると、アダムはいなくなっていた。 後に判明したことだが、子供たちがけんかになり、アルバイトの17歳の警備員がアダムもその群れの1人だと誤解したという。警備員は子供たちに店から出ていくよう命じ、そうしてアダムは姿を消した。 地元警察は、アダムが勝手にどこかへ行ったに違いないと判断した。法執行機関からは事実上、何の支援も得られず、私は自分で動くことを迫られた。メディアに働き掛け、失踪から16日後になって、ようやく息子の写真が全国放送のテレビ番組に登場した。 同じ日、わが家から200キロ近く離れた排水路で、アダムの遺体の一部が発見された。ほかの部分は見つからないままだった。 アダムの死に意味を与えるため 何週間も何カ月も、立ち直ることができなかった。その後、何かが変化した。無意味で、あまりにむごいアダムの死に少しでも意味や意義を与えるには、行動を起こす必要があると悟ったのだ。 私たちのように、想像を絶する悲劇に苦しむ家族をこれ以上出さない――。妻と私は活動に乗り出した。 行方不明児童法がアメリカで立法化されたのは82年10月。84年には、行方不明児童援助法が成立した。前者は極めて強力な法律で、FBIは全ての行方不明児童をデータベースに登録することを義務付けられた。 これこそ、アダムが行方不明になった後に当局に懇願したことだ。私たちの取り組みが始まるまで、身元不明の死亡児童を網羅する全国的データベースは存在しなかった。 その後、私は捜査番組『アメリカズ・モスト・ウォンテッド(AMW)』の司会者になったが、番組に参加するに当たっては条件があった。警察ではなく、法の知識を持つ者が応じるホットラインを設置することだ。取り上げる事件は私が選び、連邦保安局やFBIと直接協力したかった。 ===== 『AMW』は膨大な視聴者を獲得した。番組が始まってから25年以上の間に、逮捕に貢献したり、逮捕の決め手になった指名手配犯は1186人。以降もテレビでの活動を通じて、私はさらに数百人の犯罪者の逮捕に関わってきた。 アダムの死から27年が過ぎた08年、求め続けてきた正義がやっと訪れた。連続殺人犯のオーティス・トゥール(服役中の96年に死亡)が犯人だと公的に特定されたのだ。当時、フロリダ州ハリウッドの警察署長だった勇敢なチャド・ワグナーが自身のキャリアを危険にさらして、事件資料を公表したおかげだった。 いくらかの慰めになる出来事だった。だがこれほど時間がかかったという事実が、ほかの家族の力になりたいとの思いに改めて火を付けた。 私の活動によって、アダムの記憶は生き続けている。犯罪者の行方を追うときやワシントンでロビー活動をするとき、被害者家族の心のうちに耳を傾けるときも、私のそばにアダムがいると感じる。 アダムは偉大なものを残した。彼のレガシーのために戦うことを誇りに思う。