ニュートン以来、長きに渡って物理学が描いてきたのは、因果律に支配された決定論的な宇宙でした。
「現在が正確にわかっていれば、未来を予測できる」という、いわゆるラプラスの悪魔は、こうした古典物理学の常識を究極的に突き詰めていった場合に導かれる結論です。
しかしそれでは、波と粒子という異なる性質を同時に持った光や電子の振る舞いを説明することができません。
そこでボーアはこれまでの物理学の常識を覆し「物事の状態は観測によってはじめて決定される」、つまり「観測するまで物事の状態は決まっていない」というコペンハーゲン解釈を発表するのです。
「未来は決まっていない。あるのは可能性だけだ」というのは、少年漫画のオチみたいで素敵ですが、決定論と因果律を尊ぶ物理学者たちには受け入れがたいものでした。
特にアインシュタインは確率などに頼らず、明確に電子の状態を決定できる隠されたパラメータが存在するはずだと考えました。
例えばAとBの2つの箱があり、片方にだけボールが入っているとします。このときAの箱の中は、蓋を開けようと開けまいと、ボールが「ある」か「ない」かの2つに1つです。
それに対して明言を避けて「Aの中にボールがある確率は50%だ」と言われたら、単にわかんないから確率で誤魔化してるだけじゃないかと言いたくなりますよね。
アインシュタインが指摘したいのはそういうことでした。
彼にとって確率に頼るというのは、わからないから白旗をあげていることに等しかったのです。
そのためアインシュタインは、量子力学が不完全な理論であることを証明しようと、次から次へ思考実験を考案してボーアに戦いを挑みました。
現在私たちがよく知る量子力学の解説の多くは、実はアインシュタインたちが量子力学を否定するために生みだした思考実験が元ネタです。
ここからは、馴染みのある量子力学の話しが数多く登場します。
目次
- アインシュタインは量子力学の何が気に入らなかったのか?
- コペンハーゲン解釈を否定するために生まれた「シュレーディンガーの猫」
- 哲学の決着 ベルの定理
- 巨人たちの死
アインシュタインは量子力学の何が気に入らなかったのか?
第二次大戦の影響で米国プリンストン高等研究所に移ったアインシュタインは、そこでも量子論の矛盾を指摘するための方法について考えます。
しかしもうこの頃のプリンストン研究所には、生まれたときから量子論を聞いて育った若手物理学者が多く、いつまでも量子論に理解を示さないアインシュタインは、頭のおかしい”老害”だと思われていました。
そんな中で、アインシュタインに賛同して研究に手を貸してくれる二人の若手研究者が現れました。
それがポドルスキーとローゼンです。
そして3人は共同でコペンハーゲン解釈に疑問を投げかける論文を完成させます。
3人の頭文字を取ってEPR論文と呼称されたこの論文は、アメリカの物理学専門誌『フィジカル・レビュー』に掲載されて、大きな話題を呼びました。
このEPR論文が言っていることの要点は次のようなものでした。
【ある粒子(電子)AとBが一瞬だけ相互作用してお互い反対の方向へと飛び去ったとしましょう。
このときAとBの性質は相関を持っています。
Aの粒子の性質(例えば位置、または運動量)を測定すれば、反対方向に同じ距離を進んでいるはずのBの位置(または運動量)を知ることができるはずです。
この方法なら、Bに一切なんの観測をしなくても(運動をかき乱すことなく)、実在のBの運動量か位置を知ることができるはずです】
これは「観測することで粒子は現実の値を初めて得る」と主張するコペンハーゲン解釈と矛盾しています。
そのため、この主張はEPRパラドックスと呼ばれました。
この思考実験の内容は少し難しいので、何を言わんとしているかを箱の中のボールの色という問題にたとえて考えてみましょう。
赤いボールと青いボールがあり、この2つをそれぞれどちらに入ったかわからないように2つの箱にしまいます。
このとき、片方の箱を開いたら赤いボールが入っていたという場合、もう片方の箱の中は青いボールだとすぐ分かるはずです。
では、箱を開けて中身を見るまでの間、ボールはどうなっていると考えられるでしょうか?
アインシュタインは、単に我々が箱の中身を知らないだけで、箱の中のボールは赤、あるいは青に決まっていると考えました。
これがEPR論文の主張している内容で、これは極めて当たり前のことであるように思えます。
おそらくこの実験の意味を、アインシュタインの主張通りに理解している人は多いでしょう。
しかし、ボーアの主張はまったく異なります。
彼は、箱を開けるまで中身のボールの色は赤でも青でもなく2つが重なり合っていて確定していないと主張しているのです。
そして箱を開いた瞬間、ボールの色が決定されるというのです。
こうして比較すると、明らかにボーアの方がおかしなことを言っていて、アインシュタインは至極まっとうな主張をしているように感じられるでしょう。
そのため、アインシュタインは箱の中のボールの色を確定できないのは、単に必要な情報が不足している(隠れたパラメータがある)だけであり、それを明らかにできない量子力学は不完全な理論なのだと言ったのです。
もちろんボールの色はたとえ話です。
しかしボーアはEPR実験についても、2つの粒子は最初に相互作用して1つの系になっているのだから、Aを観測した瞬間に、その影響がBにも伝わって位置(または運動量)が確定し、予測が可能になるのだと主張しました。
普通に考えれば、Aを観測しただけで、何もしていない離れたBに力学的な影響が及ぶはずありません。
しかもボーアの主張では、この影響は、理論上2つの粒子が数光年という距離を隔てている場合でも、瞬時に伝わると言ったのです。
このためボーアの言うこの謎の影響を、アインシュタインは「不気味な相互作用」だと言って揶揄しました。
結局ボーアはEPR論文に対して、非常にあいまいで難解な解答しかできませんでした。
多くの物理学者が、アインシュタインは量子力学に対して再考を迫る決定的な一撃を与えたのだと感じました。
しかし、発表当初は盛り上がったものの、量子力学の理論は一貫して実験結果と一致しており、ボーアの解釈で使っていてもなんの問題も生じません。
そのため「結局はやっぱりアインシュタインがどこか間違ってるんじゃないか?」という雰囲気に落ち着いていってしまったのです。
コペンハーゲン解釈を否定するために生まれた「シュレーディンガーの猫」
ボーアの解釈に一撃を加えるEPR論文の発表に大喜びしたのはシュレーディンガーでした。
彼はEPR論文を褒める手紙をアインシュタインに書き、その中で相互作用した2粒子を表現するために世界で初めて「エンタングルメント(量子もつれ)」という表現を使います。
(厳密にはこのとき書いたのは英語ではなく、後に英訳されてエンタングルメントになります)
「量子もつれ」は現代の量子力学研究の最重要事項と言って良いものですが、この用語の誕生に関わったのもシュレーディンガーだったのです。
ここまで量子力学に貢献していながら、シュレーディンガーは自分の方程式に対するボーアたちの解釈にまったく納得していませんでした。
アインシュタインはこのシュレーディンガーの手紙に返事を書き、その中で確実なことに対して確率しか示すことのできない量子力学を次のように批判しました。
「翌年中に爆発する不安定な火薬樽があったとして、それが一年後、爆発した状態と爆発していない状態の中間だなんて、まともな記述じゃないでしょう。そんな状態の樽は現実に存在していないのですから」
シュレーディンガーは、この量子力学の奇妙な振る舞いをマクロな世界に置き換えた例え話が非常に気に入りました。
そこでシュレーディンガーは、これをきちんとした思考実験としてデザインし直して、論文にしてみようと考えました。
そして翌年発表されたのが、みんな大好きな「シュレーディンガーの猫」という思考実験です。
それは次のような内容のものでした。
【1匹の哀れな猫が鋼鉄の箱の中に悪魔的な装置と共に入れられています。
その装置はガイガー計数管の中に非常に少量の放射性物質を入れたもので、これが1時間後に原子崩壊する可能性は50%です。
ガイガー計が放射線を感知するとハンマーが稼働して青酸ガスの入った瓶を叩き割り猫は死にます。
原子崩壊は極めて量子的な現象で、それは観測するまで確率でしか状態を知ることが出来ません。
量子力学では、1時間後の原子は崩壊した状態と崩壊していない状態が50%で混合した状態と記述されます。
この場合、原子の崩壊に生死の運命を握られている箱の中の猫も、観測されるまで生きている状態と、死んでいる状態が重なり合った不可思議な状態にあるということになります。】
この思考実験でシュレーディンガーのやりたかったことは、コペンハーゲン解釈がいかに馬鹿馬鹿しい主張をしているかを示すことでした。
しかし現代のほとんどの人たちは、これをコペンハーゲン解釈の意味を説明するための例え話として引用しています。
シュレーディンガーにとっては残念な事に、彼の仕事はことごとく彼の思惑とはまったく逆の成果を生んで現代に伝わっているのです。
そもそもこうした主張の中核となっているのが、シュレーディンガーの考案した波動方程式でした。
そのためシュレーディンガーは、「私の波動方程式がこんな風に使われるのなら、論文などにしなければよかった」とまで言って嘆いたそうです。
物理学者でない私たちには、自分と異なる解釈で自分の理論が使われてしまうシュレーディンガーの悔しさは、なかなか想像が難しい問題です。
しかし、例えばシュレーディンガーが物理学者ではなく、現代の漫画家だったと考えてみましょう。
漫画家シュレーディンガーは、あるとき非常に素晴らしい男同士の友情物語を描きましたが、それはなぜかネットで上質なBL漫画としてバズってしまい、彼の名は世間にBL作家として認識されてしまいます。
この場合、作家は「名が売れたんだし、まあいっか」となるでしょうか? おそらく自分の作品の解釈について、必死で抵抗するのではないでしょうか。
科学者にとって自身の発表する論文とは、自身で作り上げた芸術作品のようなものです。
自分と異なる解釈で波動方程式を使われたシュレーディンガーの悔しさは、そんな感じだったのかもしれません。
ともかく偉大な量子力学の成功者でありながら、ちょっと不憫な研究者、それがシュレーディンガー博士なのです。
哲学の決着 ベルの定理
量子力学に対するコペンハーゲン解釈は間違っているのか?
明確に量子の振る舞いを示すことができる、隠されたパラメータは存在するのか?
ここまでの議論は、そうした問題を明らかにするために考え出されました。
現代まで語り継がれていることを考えれば、これがいかに重要な議論であったかは理解できると思います。
しかし結局、当時は決着があいまいなまま放置されてしまいました。
その理由は、これらの議論が、理論物理学者の頭の中だけで展開される思考実験でしかなく、現実の実験で確かめることができなかったためです。
EPR実験にしろ、シュレ-ティンガーの猫にしろ、観測前の可能性が重なり合った状態というものを現実で確かめる方法はありません。
多くの物理学者たちにとって、実際に実験で確かめられないアインシュタインやシュレーディンガーの提示する問題は、ただの哲学問答でしかなかったのです。
さらに決定的だったのは、現代コンピューターの父と呼ばれるフォン・ノイマンが、アインシュタインが主張するような”隠れた変数で量子力学を書き換えることは不可能だ”という数学的な証明をしてしまったことです。
ノイマン自身はこれが条件付きの証明であることを警告していたのですが、ほとんどの物理学者たちは、もうこの問題に付き合ってもキャリアを台無しにするだけだと考えるようになりました。
そして、量子論を否定するよりも量子論を使って、確かな業績を上げていくことに必死になっていたのです。
しかし、それでもこの問題に踏み込む研究者がいました。それがアメリカ生まれの物理学者デーヴィッド・ボームです。
ボームはアメリカ共産党に在籍していた履歴があったため、当時アメリカで吹き荒れていた赤狩りのターゲットにされ、プリンストン大学准教授の職を失ってしまいます。
そして失うものが何もなくなった無敵の人ボームは、そこで多くの研究者が畏れて関わらなくなっていた量子論の解釈について研究を始めるのです。
ボームの行った大きな功績の1つが、過去に発表されたEPR思考実験の簡単なバージョンを作ったことです。
オリジナルの論文では量子もつれという2粒子の検証に、位置と運動量という2つのパラメータを使っていました。
ボームはこれを量子スピンという1つのパラメータで検証できるよう作り変えたのです。
ボーム版EPR実験では、スピン0の粒子が崩壊してAとBというもつれ状態の2つの電子を作ります。
このとき2つの電子は、それぞれ「上向き(左回転)」と「下向き(右回転)」という反対方向のスピンをそれぞれ持っています。
しかしコペンハーゲン解釈に従った場合、それぞれのスピンの向きは上下が重なり合った量子状態と解釈されるため、どちらかのスピンを測定するまで、それぞれのスピンの方向を確定できません。
2つの電子のスピンは合計すると最初の粒子が持っていた「0」にならなければならないため、Aが上向きと測定されればその瞬間、Bは下向きスピンと決定されるのです。
現代でEPR実験を説明する場合は、オリジナルではなくこのボーム版が使われます。それくらい重要な修正をボームは行いました。
そして彼は、コペンハーゲン解釈の代替案となる隠れた変数理論として先導波(パイロット波)理論を発表します。
先導波理論とは、粒子と波動の関係を、波に乗ったサーファーのように解釈したものです。この波乗りする粒子は、波動方程式に従って移動しますが、任意の時刻にはっきりとした位置と運動量を持ち、そこから導かれる明確な軌跡を持っています。
しかし、観測者は不確定性原理によってその軌跡を測定することはできないのです。
先導波理論自体は1927年にド・ブロイが発表したアイデアですが、猛反発にあってこの考えを諦めていました。
ボームはこれを洗練させてコペンハーゲン解釈に変わる理論に発展させたのです。
ボームは先導波理論によって、隠れた変数を導入しても現在の量子力学と同じ予想ができることを示したのです。
この論文を読んで衝撃を受けたのが、CERNの研究者ジョン・スチュアート・ベルです。
「コペンハーゲン解釈の代替案があるじゃないか」と知ったベルは、なんとノイマンの証明が正しくなかったことを明らかにしてしまいます。
そして、ベルはアインシュタインとボーアが長い間議論を続けても解決できなかった2つの哲学的解釈について、どちらが正しいかを決定する数学的定理を発見するのです。
アインシュタインの主張は、量子は測定で決定しているのではなく初めから決まった値を持つはずだ、というものでした
アインシュタインが特にこだわっていたのが「局所性」という問題で、ある出来事の結果が光の速度より速く他の場所に伝わって影響を与えることはない、ということでした。
もしEPR思考実験で2粒子を数光年離して測定したとき、Aの電子の測定結果によって、Bの電子の測定結果が決まるとなると、それは局所性が破れていることになります。
さきほども説明したように、Aを見たらBがわかるという2粒子の測定は、アインシュタインの理屈からすれば、Aという箱とBという箱にそれぞれわからないように赤と青のボールが入っているだけで、それぞれの箱の中のボールの色は最初から決まっている、ということなります。
この場合、何光年離れた場所で箱を開こうと、Aの中身が青だったら、Bの中は赤のボールだと即座にわかるでしょう。
しかし、ボーアの解釈では箱を開くまでボールの色はこの世界で決定されておらず、開いて観測した瞬間に青(または赤)に確定すると言っています。では、この2人の主張のどちらが正しいのか、判定する方法はあるのでしょうか?
箱を開けて観測する人物からすれば、最初から入っているボールの色が決まっていようと、見た瞬間にボールの色が決まろうと、違いはわかりません。
しかしベルは、ボーム版EPR実験を使ってこれを検証する方法を思いついたのです。
その方法は、いうなればバレないように薄目でちょっとだけ覗くと言っているのに近い感覚です。
もつれ状態の電子スピンは、それぞれX軸(左右)、Y軸(上下)、Z軸(前後)という直行する三次元軸ごとに他と関係なく測定できます。
もし電子のスピン(回転方向)を見定めようと思ったら、真横(X軸)から観測すれば、100%の確率で回転の向きを確認できるでしょう。
ただこの観測の仕方では、Aのスピンを測定してBのスピンが決定されたのか、もともと決まっていたのか判断できません。これは赤青ボールの問題と同じ状態です。
しかし、ベルは角度をつけてスピンを測定した場合、100%の相関で両者のスピンを測定出来ないことに気づきます。
量子スピンは以前の章でも紹介した通り、古典物理学には対応するもののない純粋な量子的性質を表しています。
そのため角度を付けてスピンを測定し、スピン方向を確実に決定できなかった場合、2粒子がどっちも上向きというような結果が出てきてしまうのです。
そして、このとき予想される相関のばらつき範囲は、粒子が初めから決まった値を持っている場合と、測定で初めて値が決定されその情報がもつれた粒子にも伝わっていた場合で、それぞれ異なることをベルは発見したのです。
これをベルの不等式(ベルの定理)と呼びます。
これは長く続いた哲学論争を、実験で検証できるようにした画期的なものでした。
理論物理学者だったベルは、「アインシュタインとボーアのどっちが正しいか検証できる実験を思いついたから試してみてよ」と実験物理学者たちに呼びかけました。
けれどこの実験は当初ベルが考えていたほど簡単なものではなく、その後さまざまな研究者たちが検証を繰り返しますが、なかなかうまく行きませんでした。
しかし、最終的に1980年代にアラン・アスペによって、アインシュタインの解釈では、説明できない結果が得られたのです。
この瞬間、ボーアの考えが正しく、アインシュタインの考えが間違っていたことが実験で証明されました。
アインシュタインの言った不気味な相互作用は、現在では量子テレポーテーションという呼び名で知られていて、量子コンピュータや量子ネットワークの設計でも重要な概念になっています。
こうして、量子力学の解釈を巡る長い論争に決着がつきました。
このときにはもう、アインシュタインもボーアも亡くなっていました。
彼らは自分たちの考えにどういう軍配が下ったか、知ることはなかったのです。
こうした結果があるからこそ、もともとはコペンハーゲン解釈を否定するために作られた、シュレーディンガーの猫やEPRパラドックスという理論が、現代においてはコペンハーゲン解釈の不可解な世界観を説明するための例え話にされているのです。
ベルの定理は、まさにアインシュタインの弔いの鐘になったのでした。
巨人たちの死
最後にこの偉大な量子論の歴史を築き上げてきた物理学の巨人たちの最後について触れておきましょう。
量子論の父と呼ばれ、最初にその世界の入り口を開いたマックス・プランクは第二次大戦中もハイゼンベルグなどど共にドイツに留まりますが、1945年に末息子のエルヴィンがヒトラー暗殺容疑で捉えられ、絞首刑にされてしまいます。
「彼はわたしの太陽、誇り、希望だった」最愛の息子を亡くしたプランクは失意に暮れますが、それでも終戦後はドイツの物理学復興のために尽力し、彼の名を冠したマックス・プランク研究所が誕生します。
そして終戦後、間もない1947年に脳卒中により89歳で亡くなりました。
マックス・プランク研究所は、現代も残っていて多くの成果をあげています。
アインシュタインは1955年、動脈瘤の破裂で息を引き取ります。76歳でした。
彼はなくなる直前まで研究に夢中で、病院のベッドの中でも研究ノートを持ってくるよう家族に頼んでいたといいます。
アインシュタインは亡くなる直前に、ドイツ語で何かをつぶやいたそうですが、夜勤の看護婦はそれが何を意味するのか聞き取ることはできませんでした。
彼は生前の希望通り火葬にされ、未公開の場所に灰が撒かれました。なお、彼の脳だけは火葬の前に取り出され、研究に回されました。
アインシュタインの死によって、量子力学の解釈に表から挑んでくる者はなくなりました。
しかし、それでもボーアは、亡きアインシュタインと討論するように、量子力学の問題について考え続けたといいます。
「私にはアインシュタインが微笑んでいるのが見える。得意げだけど、思いやりのあるあの顔で」
ボーアはアインシュタインの死から7年後の1962年に亡くなりましたが、その前夜、書斎の黒板に描いていたのは1930年にアインシュタインが提示した「光の箱」という思考実験の図でした。
ボーアが最後まで気にかけていたのは、今考えている物理学の問題をアインシュタインならどう言っただろう? ということだったのです。
彼らの死後、著名なアメリカの物理学者リチャード・ファインマンはこういいました。
「量子力学を理解しているものは、一人もいないと言って良いだろう」
私たちは、生まれたときからその答えを知っていて、中学生のときには「シュレーディンガーの猫ってのがあるんだって、すげえ。量子力学って意味わかんねえ」とか言っていたかもしれません。
しかし、それは世界最高峰の科学者たちも同様だったのです。
量子力学は現在も相対性理論を含めた古典物理学とは分断されていて、物理学者たちはこれをなんとか統一したいと願っています。
現在の解釈も、どこかの未来で修正されることになるのでしょうか?
もしかしたらそのとき、「だから不完全だと言ったろう?」とアインシュタインがボーアの横で微笑むのかもしれません。
得意げだけど、思いやりのあるあの顔で。
量子革命: アインシュタインとボーア、偉大なる頭脳の激突 (新潮文庫)
参考文献
量子革命: アインシュタインとボーア、偉大なる頭脳の激突 (新潮文庫)