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PXL_20210829_082036471 9月16日発行の「東北再興」第112号では、今年で登録から10年を迎えた平泉の世界遺産について改めて振り返ってみた。この世に浄土を創り出そうとした奥州藤原氏三代の取り組みは、震災に打ちひしがれていたあの当時の私たちに大きなメッセージを与えてくれたように思う。

 以下がその全文である。記事中で触れた「金色堂がラベルにあしらわれた地ビール」とはこれである(笑)。いわて蔵ビールが造る「ゴールデンエール」というスタイルのビールで、金色に輝く色合いはまさに金色堂のイメージに重なる。現在では平泉で販売されているものだけがこの「ご当地ラベル」である。


世界遺産登録から10年

震災の年の世界遺産登録
 岩手県平泉町にある中尊寺、毛越寺を始めとする遺跡が世界遺産に登録されて今年で10年になる。10年前と言うと、まさにあの東日本大震災が起きた年である。3月11日に起きたあの巨大地震に伴う被害のあまりの大きさに打ちひしがれていた折も折、その年の6月29日に、平泉の「仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」が、東北初の世界文化遺産として登録されたのである。これは、大変なことが続いていたあの時に触れた嬉しいニュースであった。

 とりわけ、平泉の文化遺産は一度、登録延期の憂き目に遭っている。2008年のことであった。「『顕著な普遍的価値』が十分に証明しきれていない」というのがその理由であった。それから3年後の再挑戦で見事登録を果たしたということで喜びもひとしおであった。

世界遺産に登録されるためには
 中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山の5つの構成遺産がなぜ世界遺産となったのか。世界遺産に登録されるためには、当然のことながら多くの要件を満たすことが必要である。とりわけ重要なのが、その「顕著な普遍的価値」があるということである。それがあると証明するためには、①世界遺産委員会が示す10の価値基準のうち最低1つに該当すること、②真実性・完全性を満たすこと、③有効な保存管理体制が整備されていること、を示す必要がある。

 平泉の文化遺産は、この10の価値基準のうち、基準ⅱと基準ⅵについて普遍的価値があると認められた。基準ⅱは「建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流またはある文化圏内での価値観の交流を表すものである」こと、基準ⅵは「顕著な普遍的意義を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある」ことである。

 基準ⅱに該当する根拠として、推薦書では、「平泉の仏堂・浄土庭園群及び考古学的遺跡群は、6世紀に中国・朝鮮半島から伝来し、日本古来の自然崇拝思想と融合しつつ、12世紀にかけて独特の性質を持つものへと展開を遂げた日本の仏教、その中でも特に興隆した浄土思想に基づき、現世における仏国土(浄土)の空間的表現を目指して創造された顕著な事例である。それらは、仏教とともに受容した伽藍造営の理念及び意匠・技術を出発点とするのみならず、同時に受容した外来の作庭思想と古来の水辺の祭祀場における水景の理念、意匠・技術との融合をも出発点として、それに後続して成立・発展を遂げた日本の独特の仏堂・浄土庭園の理念及び意匠・技術の伝播の過程を証明している」と指摘している。

 一方、基準ⅵについては、「平泉が造営される過程で重要な意義を担ったのは、日本固有の自然崇拝思想とも融合しつつ、独特の展開を遂げた日本の仏教であり、その中でも末法の世が近づくにつれて興隆した阿弥陀如来の極楽浄土信仰を中心とする浄土思想である。それは、12世紀における日本人の死生観を醸成する上で重要な役割を果たし、世界の他の地域において類例を見ない仏国土(浄土)を空間的に表現した建築・庭園群などの理念、意匠・形態へと直接的に反映した。さらに、それらは宗教儀礼や民俗芸能等の無形の諸要素として、今日においてもなお確実に継承されている」としている。

平泉の5つの構成遺産
 構成遺産の5つについて、推薦書の記述を参考にしながら改めて見てみよう。中尊寺(ちゅうそんじ)は国の特別史跡で、奥州藤原氏の初代清衡が12世紀始めから四半世紀をかけて造営した寺院である。境内には、金色堂(こんじきどう)、金色堂覆堂、経蔵等の国宝及び重要文化財がある。また、鎮護国家大伽藍一区跡等、境内の全域が特別史跡に指定されている。中尊寺で最も有名な金色堂は、中尊寺境内北西側に位置する阿弥陀堂建築である。藤原氏四代の遺体及び首級をミイラとして安置した霊廟であり、平泉の政治・行政のみのならず、精神的な拠り所となっている。

 毛越寺(もうつうじ)は国の特別史跡と特別名勝に二重指定されている。二代基衡が12世紀中頃に造営した寺院の跡である。境内には、特別名勝に指定されている「浄土庭園」と、特別史跡及び特別名勝の構成要素である常行堂が含まれている。常行堂で行われる常行三味の修法と「延年」の舞は、12世紀における浄土思想の無形の要素として重要である。

 観自在王院跡(かんじざいおういんあと)は特別史跡・名勝で、毛越寺の東に接している基衡の妻が建立した寺院である。発掘調査の結果、園池を中心として、南側には大小の阿弥陀堂が設けられており、阿弥陀如来の極楽浄土の表現を意図して「浄土庭園」が造られていたことが明らかとなっている。

 無量光院跡(むりょうこういんあと)は特別史跡で、三代秀衡が12世紀後半に建立した寺院の跡である。西方に金鶏山(きんけいさん)が控え、園池に浮かぶ大小3つの島に翼廊付の仏堂と拝所・舞台をそれぞれ設けた空間構成は、「浄土庭園」の最も発展した形態と考えられている。

 その金鶏山は史跡で、標高98.6mの山である。山頂には経塚が設けられていた。浄土思想に基づいて完成された政治・行政上の拠点である平泉の空間設計の基準となった信仰の山である。

 この他、世界遺産からは除外されてしまったが、柳之御所遺跡(やなぎのごしょいせき)という史跡がある。これは奥州藤原氏の住居であるとともに、政務の場でもあった「平泉館」と呼ばれる居館の跡である。初代清衡が造営した中尊寺金色堂、秀衡が造営した無量光院など、仏国土(浄土)を空間的に表現する建築・庭園とも空間上の緊密な位置関係を持つ。

金鶏山に沈む夕陽を見ながら

PXL_20210829_083010911 さて、この平泉の世界遺産を構成する遺産の一つ、無量光院跡から見て、その西方に見える平泉のランドマーク的存在、金鶏山の山頂に夕陽が沈む日が春先と夏の終わりの年2回ある。奥州藤原氏の下、百年の平和を謳歌した当時、ここには京都の平等院鳳凰堂を一回り大きくした同じような形の寺院があった。中央には阿弥陀如来が本尊として鎮座しており、年2回、夕陽が金鶏山に沈むその日は、夕陽の光が本尊の阿弥陀如来の後光となって輝き、この世の極楽浄土を体感できる仕掛けになってたのである。

 金色堂のある中尊寺、浄土庭園のある毛越寺、観自在王院、そしてこの無量光院、いずれも世界遺産の登録名にある通り、「仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」である。金色堂は「皆金色」と言われる仏の世界を具現化したものであるし、浄土庭園は文字通り、浄土の有様を庭園で表現したものである。

 奥州藤原氏が三代に亘ってこうして様々な意匠を以て、浄土を表現してきたわけである。残念ながら源頼朝に滅ぼされた四代泰衡も、その治世が長く続いていたならばきっと、父祖とはまた違う形で浄土を表現したに違いない。

 奥州藤原氏が実権を握るまでの長い間、東北は戦乱に明け暮れ、多くの人が亡くなった。なぜ奥州藤原氏がこうして、繰り返し繰り返し違う形で浄土表現し続けてきたのかと言えば、それは浄土というものが仏典にあるように十万億土のはるか遠い彼方にあるのではなく、今ここ、目の前にあるのだ、ということを伝えたかったのではないだろうか。

 「中尊寺供養願文」にある有名な一節、「古来、奥州では、官軍の兵、蝦夷の兵の区別なく、多くの者の命が失われてきた。毛を持つ獣、羽ばたく鳥、鱗を持つ魚もまた、数限りなく殺されてきた。命あるものたちの御霊は、今、あの世に消え去り、骨も朽ち、奥州の土塊となり果てたが、中尊寺のこの鐘を打ち鳴らすたびに、罪なく命を奪われた者たちの御霊を慰め、極楽浄土に導きたいと願う」は、まさにそうした戦乱を生き延びた初代清衡の思いが詰まっている。

 推薦書でも「現世における仏国土(浄土)の空間的表現を目指して創造された顕著な事例」とされている通り、まさにこれらは現世において浄土を創り出そうとしたその成果なのである。なぜ、この世の浄土を創り出そうとしたか、戦乱によって多くの人が亡くなり、生き延びた人にとっても、この世は地獄で、浄土は死んだ先にしかないという味方が支配的だったことだろう。しかし、それでもそうではなく、浄土はここにある、ここに浄土を創っていくのだ、ということを決意し、それを示したのが、これら平泉の世界遺産を構成する5つの遺産だということである。

 金鶏山に沈む夕陽を見ながら、コロナ禍で大変な時ではあるが、日々のすべてをそれだけで覆い隠してしまうことなく、嬉しかったこと、楽しかったこと、幸せに感じたこと、ありがたかったことなど、しっかり心に留めて大事にしたいと強く思った次第である。「道の駅 平泉」では、金色堂がラベルにあしらわれた地ビールを購入できる。こうして美味しいビールが飲めるというのも、実にありがたいことである。