もっと詳しく

<今年2月、生誕から110周年を迎えたロナルド・レーガンは底抜けの楽観主義だった。その存在は今も米国に影響を与えている> ロナルド・レーガンは、物語を披露することが大好きだった。2004年に亡くなったが、大統領時代にプロテスタントの聖職者の集会で挨拶をしたときのこと。レーガンは、同じ日に死んだ聖職者と政治家についての話をした。 2人は天国の入り口で門番のペテロに出迎えられた。ペテロは天国のルールを説明し、2人をそれぞれの住む家に案内した。聖職者の家は、1部屋にベッドとテーブルと椅子があるだけ。政治家の家は、立派な家具がそろった巨大な邸宅だった。 政治家は感謝しつつも戸惑いを隠せなかった。「どうして私はこんなに素晴らしい家を与えられたのに、あの立派な聖職者は狭い家にしか住めないのでしょうか」 ペテロはこう答えた。「天国には、聖職者はもう大勢います。政治家でここに来ることができたのは、あなたが最初なのです」 いかにもレーガンらしいユーモアだ。笑い転げるようなギャグではないが、思わずクスっとさせられる。このとき語った物語は、その場にいた唯一の政治家である自分を卑下し、聴衆である聖職者たちのプライドをくすぐるものだった。 こうしたユーモアに接した人は、レーガンを親しみやすい人物だと感じる。政策への支持・不支持は別にして、この男のことが好きにならずにいられないのだ。 タイミングに恵まれた大統領 もっとも、レーガンが過去半世紀のアメリカで自身の理念の実現に最も成功した大統領になれた要因は、ユーモア感覚と人当たりのよさだけではない。タイミングにも恵まれた。 「小さな政府」を信奉するレーガンが大統領に就任したのは1981年。当時のアメリカ国民は、30年代のニューディール政策以来、ひたすら政府の規模が大きくなり続けていたことにうんざりし始めていた。 レーガンは就任演説で「この現在の危機においては、政府は問題の解決策になっていない。政府こそが問題だ」と述べた。この言葉は、多くの国民の気持ちを代弁していた。国民はレーガンの減税策と規制緩和に喝采を送り、84年の大統領選でも圧倒的な大差で再選した。 レーガンは別の面でもタイミングに恵まれていた。60年代まで、アメリカの民主党と共和党はいずれも保守派とリベラル派の連合体という性格を持っていた。共和党内では、北東部を地盤とする穏健派と、南部で勢力が強い保守派が共存していて、民主党内では、南部の保守派と都市部のリベラル派が共存していたのだ。 ===== 1981年、1期目の就任式を控え、自宅で就任演説の草稿を執筆 DIRCK HALSTEAD/GETTY IMAGES 状況が変わり始めたのは、60年代に大統領を務めたリンドン・ジョンソンが公民権擁護を民主党の主要政策の1つに据えてからだった。この動きに反発した南部の民主党保守派は共和党に移っていった。それにより共和党ではリベラル派が居場所を失い、この勢力は民主党に合流した。 このプロセスは30年ほどかけて進行し、90年代にほぼ完了した。それ以降、リベラル派の共和党員や保守派の民主党員はほとんど姿を消した。 こうした政治の大転換の途中で、レーガンは大統領に就任した。この点は、レーガン政権が成功する上で極めて大きな意味を持った。 「80%」の成果のほうを選ぶ レーガンは保守派ではあったが、常に現実主義者であり続けた。レーガン政権で首席補佐官と財務長官を務めたジェームズ・ベーカーによれば、レーガンは「妥協せずに崖から転落するくらいなら、目標を8割達成することを選ぶ」と述べていた。 選挙に勝つ目的は政治的得点を稼ぐことではなく、国を治めることだとレーガンは考えていた。大統領時代には、下院議長を務めていた民主党のトーマス・P・オニールと頻繁に面会し、税制、福祉、公的年金、移民、国防など、さまざまなテーマで次々と妥協案をまとめた。 保守派の民主党議員がたびたび造反したこともあり、レーガンはたいてい「80%」の成果を得ることができた。 外交でもタイミングが味方した。レーガンは、政界入りする前の俳優時代から筋金入りの反共主義者だった。映画俳優組合の委員長を務めた頃は、映画産業の労働組合から共産主義者を排除しようと奮闘したこともあった。 大統領に就任すると、当時の共産主義大国・ソ連に対する政策を大きく転換させた。ソ連に対する「封じ込め政策」を継承せず、ソ連との冷戦に勝つための戦略を選択したのだ。国防力を強化し、軍拡競争を宇宙に拡大することも辞さずに「戦略防衛構想(SDI)」を推進した。 冷戦下で東西に分断されていたドイツの西ベルリンを訪れた際は、ベルリンの壁の前で「この壁を壊しなさい」とソ連指導部を挑発した。だがレーガンのこうした行動は、はかばかしい成果を上げなかった。歴史の歯車が冷戦終結へと回りだしたのはソ連に改革派の指導者ミハイル・ゴルバチョフが登場してからだ。 ===== 88年12月、ニューヨークで行われた昼食会でゴルバチョフと乾杯 CORBIS/GETTY IMAGES レーガンはゴルバチョフと顔を合わせ個人的な関係を築いた上で、歴史的な軍縮交渉に乗り出した。レーガンの任期中には冷戦は終わらなかったし、冷戦を平和的に終わらせるには次期大統領ジョージ・H・W・ブッシュの卓越した外交手腕が必要だった。 それでもレーガンの功績は大とされている。実際、アメとムチを巧みに使い分けるレーガン流交渉術は対ソ協議の円滑化に役立った。 レーガンは就任時とは様変わりした世界を残してホワイトハウスを後にした。望ましい変化もあったが、全てがそうではない。レーガンの「大きな政府」批判は主流の見解となり、民主党の大統領ビル・クリントンでさえ「大きな政府の時代は終わった」と宣言せざるを得なかった。 レーガノミクスの規制緩和は経済を劇的に変えた。庶民も空の旅を楽しめるようになったし、生産とサプライチェーンのグローバル化が進み、今も続くデジタル革命が幕を開けた。 しかしポスト・レーガン時代の経済は少数の富裕層に大きな恩恵をもたらす一方、「その他大勢」を置き去りにした。結果的に19世紀後半の経済膨張期以降、未曽有とも言うべき所得格差が生まれた。 また、生産拠点の国外移転で脱工業化が一段と進み、コロナ禍のような想定外の事態にはひとたまりもない脆弱なサプライチェーンが構築された。デジタル革命はその影響力の大きさと影響の及ぶ範囲で途方もなく巨大化した寡占企業を生み出した。 レーガンの遺産を歪めたトランプ レーガンは節度をわきまえた温厚な人物で、慎重に言葉を選んだが、その後の歴代の大統領は必ずしもそうではなかった。就任演説でレーガンは「この現在の危機においては」という条件付きで「政府こそが問題だ」と述べたが、攻撃的な共和党候補たちはその前提条件を捨て去った。そして既成政治を容赦なくたたき、民主党政権の政策の擁護者を「アメリカ人の敵」扱いした。 いい例が過激な発言で大統領になったドナルド・トランプだ。任期終了間際には、大統領があおった怒りが物理的な暴力にまで発展した。 トランプの共和党はレーガンの共和党とは全くの別物だ。それでも受け継がれてきたレガシーはある。レーガン自身は人種差別主義者ではなかったが、「州の権限」の回復を主張することで南部諸州の人種差別主義的な政策を正当化し、共和党内に差別的な一派を残す結果となった。トランプがそうした一派を大いに厚遇したことは言うまでもない。 ===== 87年にはベルリンの壁の前で「この壁を壊しなさい」とソ連指導部を挑発した THIERLEINーULLSTEIN BILD/GETTY IMAGES トランプは多くの共和党員が重視してきた礼節をかなぐり捨て、大統領の品格を踏みにじった。それでもなお共和党員はトランプ批判には及び腰だ。なぜか。共和党の右傾化と民主党の左傾化がもたらした党派的な結束が党内批判を妨げている側面もあるが、レーガンの影響も否めない。レーガンはモーゼの十戒に続く11番目の戒めのようなルールを共和党に設けた。いわく「なんじ、同志たる共和党員をこき下ろすことなかれ」。 トランプ自身は平気でこのルールを破っているが、他の共和党員は今も忠実にこれを守っている。 1つだけ、トランプがレーガン流をそっくりそのまま取り入れた手法がある。レーガンは「偉大なコミュニケーター」だった。当時の支配的なメディアであるテレビをフル活用し、記者やエディターのフィルターを通さずに直接、有権者に語り掛けた。トランプはこのアイデアをソーシャルメディア時代に応用した。彼のツイッターの膨大な数のフォロワーはファクトチェックなしの妄言の数々を日々追い掛けた。 アメリカの未来を信じ続けた しかし、おそらく最も重要なのはレーガン政治の核心を成す価値観が今の共和党、さらには大多数のアメリカ人のそれとは必ずしも一致しないことだろう。レーガンはアメリカ史に刻まれる困難な時代を何度も経験した。大恐慌、第2次大戦、冷戦、混乱の60年代、そしてベトナム戦争敗北後の自信を失った70年代。それでも彼はアメリカの輝かしい未来を信じて疑わなかった。レーガンはアメリカ的なもの全てを愛する「永遠のオプティミスト」だったのだ。 退任後にアルツハイマー病と診断されたときでさえ、その信念は揺るがなかった。「私は今、人生のたそがれへと向かう旅に出発したところだ」と、彼はアメリカの人々に宛てた別れの手紙で述べた。「私は確信している。アメリカにはいつも輝かしい夜明けが訪れる、と」