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<ソウル五輪以来33年破られていない100と200の不滅の記録、圧倒的過ぎるだけにドーピング疑惑もつきまとった疑惑の記録は破られ、東京大会で歴史が作られるかもしれない> 陸上短距離の女王と呼ばれた故フロレンス・グリフィス・ジョイナーが1988年のソウル五輪で樹立したオリンピック記録は東京で破られる可能性があると、アメリカの元陸上代表でジョイナーの元夫のアル・ジョイナーがAP通信に語った。 ソウル五輪のジョイナー夫妻(1988) REUTERS 「フロー・ジョー」の愛称で親しまれたフロレンス・ジョイナーが樹立した100mと200mの記録は33年間破られていない。今の陸上女子短距離のトップ選手の多くは、彼女が活躍した当時、まだ生まれていなかった。ソウル五輪直前の代表選考会で出した100mの世界記録10秒49と五輪本番の200m決勝で出した21秒34は不倒の大記録として、現役スプリンターの目の前に立ちはだかっている。 記録更新が期待されるのはジャマイカ勢だ。北京とロンドン大会の金メダリストで、出産後に復帰した「マミー・ロッカー」ことシェリーアン・フレイザープライスは6月にジャマイカで行われた競技会で女子100m歴代2位となる10秒63をマーク。チームメイトのエレイン・トンプソンも7月に10秒71を出した。アメリカの女子短距離のホープ、シャカリ・リチャードソンも4月に10秒72をマーク。フロレンス・ジョイナーが1988年9月24日にソウルで出した女子100mのオリンピック記録10秒62が破られるのは時間の問題だろう。 「私を超えてほしい」 AP通信が伝えた詳細は以下のとおり。 アル・ジョイナーは亡き妻が打ち立てた記録が破られても驚かないと話した。たとえ東京で破られなくとも、2024年のパリ五輪か、それ以前に新記録樹立のチャンスがあると、彼は見る。自分の記録が破られるのは、フロレンスにとっては本望だ、というのだ。 「彼女はあるとき私に言った。『若い選手には私の後を追いかけてほしくない。私を超えてほしい』と。それが彼女の変わらぬ夢だった」 フロレンスの記録には疑問がつきまとい、過去には公認取り消しを求める声も上がった。 当時としては考えられないようなタイムであること、以後30年余りもコンマ14秒圏内まで迫れたスプリンターがいないことから、ソーシャルメディアなどでは、露骨にドーピングを疑う声が上がっている。100mの世界記録が出たインディアナポリスでの予選会では、かなり風が強く、他の記録の多くは「追い風参考」となったが、ジョイナーが走ったときは風速ゼロだったとして世界新と公認された。またソウル五輪でベン・ジョンソンが出した記録がその後のドーピング検査で剥奪されるなど、男子の記録はたびたび公認が取り消されてきたにもかかわらず(現在の世界記録は2009年にウサイン・ボルトが出した9秒58)、ジョイナーの記録は一貫して問題なしとされてきたことも疑いの目で見られている。 ===== ソウル五輪当時はドーピング検査の精度も低く、検体も保存されていないため、当時の記録には疑惑がつきまとう。ジャマイカやアメリカの女子選手が好記録をマークし、東京での記録更新が期待されて、ジョイナーの「不滅の記録」が再び注目されるなかで、くすぶっていた疑惑も再び渦巻き始めた。生前のジョイナーと親しく、今も家族と付き合いのある俳優のホリー・ロビンソン・ピートはそんな雲行きを察して、ツイッターでこう釘を刺した。 「彼女の葬儀の日、私は胸がつぶれる思いだった。どうか彼女の遺族やレガシーを汚すような心ないコメントは慎んで!」 アル・ジョイナーも長年、亡き妻の記録に対する疑問や批判の声に悩まされてきたが、超然とした態度を貫こうと努めてきたと言う。女子のランナーでフロレンスを超える最長記録を保持しているのは、1985年に400mの世界記録をマークした東ドイツのマリタ・コッホと、1983年に800mの記録を樹立したチェコスロバキアのヤルミラ・クラフトフミロバだけだ。いずれも、東欧圏の国々が国家ぐるみでドーピングを行なっていた時期に樹立された記録である。 亡き妻は疑惑に対し「常に超然としていた」と、アル・ジョイナーは言う。「私もそうしようと努めている。彼女は常に品位を失わなかった」ちなみに彼の妹、ジャッキー・ジョイナー・カーシーも陸上七種競技で活躍した伝説的なアスリートだ。 目を剥くようなタイム アル・ジョイナーは亡き妻のトラックでの活躍と、彼女との忘れがたい思い出を大切にしていると話す。その1つは、ソウル五輪前の予選会で、三段跳びに出場するために準備をしている最中、妻の100mのレースを応援するため、トラックに目をやったときのこと。 忘れもしない7月16日のこの日も、彼女はトレードマークの鮮やかなマニキュアを塗った長い爪、片脚だけロングスパッツになっている蛍光色の紫のウエア姿で、ネオンカラーの疾風のようにトラックを駆け抜けた。ゴールした瞬間、会場がどよめき、アナウンサーは一瞬声を失った。電光掲示板に躍ったのは10秒49。目を剥くようなタイムだ。 妻が成し遂げた歴史的な偉業に、アル・ジョイナーは宙高く飛び上がった。その喜びのジャンプを、自分のレース後に繰り返すことはなかった。1984年のロス五輪で三段跳びの金メダルに輝いた彼は、この大会で敗退し、ソウルでの2連覇はかなわなかった。 自分のことより、妻が出した偉大な記録で「胸がいっぱいだった」と話す。 彼女は五輪本番でも大活躍し、誰も真似できないと言われるような快挙を成し遂げた。ロス五輪の200mでの銀メダルに加え、ソウルではリレー2種目にも出場し、3個の金を含め4個のメダルを獲得したのだ。 ===== 世界を熱狂させたフロレンス・ジョイナーはソウル五輪後に引退。1998年、てんかんによる心臓発作で睡眠中に38歳の若さで亡くなった。 「彼女に会えば、誰でもすぐに好きになる」と、亡き妻との間に娘のメアリーがいるアル・ジョイナーは話す。「(今の選手も)彼女の名前は知っているが、当時彼女が巻き起こした衝撃は想像もつかないだろう」 自分のスタイルを貫いた点でも、彼女が与えた影響は大きい。100mの世界新を出した直後のインタビューではこう語っている。「お決まりのやり方に従うのは苦手。自分らしさを大事にしたい。違ったカラーを打ち出したい。支給されるウエアはあまりに標準的で魅力に欠ける」 今のスプリンターは記録で彼女の背中を追うだけでなく、長い爪などトラックでの派手なスタイルも真似している。アメリカのリチャードソン選手は、爆発的なスタートの技でもフロー・ジョーの再来と言われるが、ファッションのセンスも似ている。東京に向けた代表選考会では、炎を思わせるオレンジ色の髪をなびかせて疾走した。だがその後のドーピング検査で、禁止薬物のマリファナの使用が発覚。資格停止となり五輪には出場できなくなった。 それでも、いずれはリチャードソンが100mの記録を塗り替えると期待する声は多い。 妻に「駆けっこ」で負けて 「リチャードソンと(ジャマイカの)エレイン・トンプソンの走りは亡き妻を思わせる」と、アル・ジョイナーも言う。「彼女たちは(記録に)迫れるだろう。自分ならできると自信を持っているからだ」 200mの記録も破られる可能性がある。 2020年6月に行われたアメリカの代表選考会では、ハーバード大学出身の疫学者でスプリンターのガブリエル・トーマスが200mで歴代2位の21秒61をたたき出した。アル・ジョイナーはたまたまスタンドでそのレースを見ていた。 「彼女はもっと速く走れると思っている。必要なのはそういうメンタルだ」と、再婚し、今はコーチング業に携わっている彼は話す。 世界新を樹立できるかという質問に、トーマス自身はこう答えている。 「自分に限界を設けたくないから、手が届かないとは言わない」 アル・ジョイナーは亡き妻に初めて会ったときのことを今でも鮮明に覚えている。アメリカがボイコットした1980年のモスクワ五輪の代表選考会でのこと。通路ですれ違っただけだが、印象は強烈だった。だが初デートはその6年後。2人は1987年に結婚した。 結婚後まもなく、彼は自身の競技キャリアを終え、妻のサポート役に回り、最大の理解者となった。決断のきっかけは、トラックで妻と1対1の勝負をしたことだ。 彼はあっさり負けた。 「それで潔くトラックを去り、コーチングに転向したんだ」と、アルは笑う。「彼女は僕を負かしたことが嬉しくないようだったが、どのくらい差をつけられるか確かめたかったらしい」 ===== 故フロレンス・ジョイナー(アメリカ) シェリーアン・フレイザープライス(ジャマイカ) エレイン・トンプソン(ジャマイカ) シャカリ・リチャードソン(アメリカ、ただし東京大会は直前で出場停止に)