もっと詳しく

<日本を代表する知識人・山崎正和が2020年8月19日にこの世を去り、1年がたった。池内恵・東京大学教授、細谷雄一・慶応義塾大学教授、待鳥聡史・京都大学教授という70年代生まれの論客が語り合った、山崎正和との出会いと思い出を再録する> ※座談会は2020年8月28日放送の「国際政治チャンネル」より。本稿は『別冊アステイオン それぞれの山崎正和』(CCCメディアハウス)所収。 「文学便覧」の人 ■池内 山崎先生は私たちの共通の、何と言うんでしょうね? ■細谷 「メンター」じゃないですか? ■池内 私たち3人にとって山崎先生は、弟子とか上司とか、そういう関係ではなかったのですが、仕事上でも非常にお世話になっています。 山崎さんの最初の有名な著作は60年代の初頭ぐらいで、我々の中高時代に「文学便覧」や試験問題で名前を見る人でした。その後、大学、大学院へと進み、さらに、本を書いたりしていると、サントリー文化財団の研究会に呼ばれたりして、そこに参加すると、山崎さんが現れるわけです。 高校時代に大昔の作品の著者だった人がぴんぴんとしていて目の前に元気に現れて、「君の本はよかったね」とか言ってくれる。これは不思議な体験ですよね。 また、その話が非常に面白く、一緒に話をすると私たちが活性化され、先生ももっと元気になっていくという関係を20年ぐらい体験させてもらってきました。 そして山崎先生と言えば、やはり「社交」です。学術というよりも「学芸」、それがサントリー学芸賞ですよね。私たち3人が長い間編集委員をやってきた『アステイオン』の書き手や編集委員の多くはサントリー学芸賞の受賞者です。 毎年受賞者がいるので、その集団が『アステイオン』やサントリー文化財団の様々な研究会でつながっています。そのコミュニティ、つまり社交の場をゼロから生み出したのが山崎さんですが、皆さんにとってはどうだったでしょうか? ■細谷 山崎先生を一言で説明をするのはとても難しいですね……。新聞などでは「戦後最大の知識人で巨人」とか、「論壇で最も重要な役割を担った、戦後日本を象徴する知識人」など様々な賛辞がありましたけども、「専門」という言葉も似合わないし、思想的な立場、イデオロギーも一言で説明できない。 1960年代、論壇が一番華やかな時代において中枢にいて、しかし権力ともある独特の距離感を取りながら、一定程度の関与もしている。そういった意味ではとても不思議な存在ですよね。 関西にいらっしゃる待鳥さんがこの3人の中で会った回数、時間が一番多いのではないかと思いますが、どうでしょうか。 ===== 待鳥聡史・京都大学教授 国際政治チャンネル ■待鳥 私が最初にお目にかかったのは、サントリー文化財団の研究会「文明論としてのアメリカ研究会」(2006年3月~2008年3月)です。最初の印象は、「わっ、本物がいる!」です。 池内さんと同じで「文学史の教科書に出ている人」なので、まさかそこにいるとは思わないわけですよ。ですから、お目にかかって、まさに「動いてる!」みたいな感じでした。 しかし、実際の山崎先生はものすごく気さくだし、まず威張らない。そして好奇心がとても旺盛。北岡伸一先生や田所昌幸先生など信頼を寄せている人の前では、たとえば日本外交などについて、ものすごく思い切ったことをお尋ねになり、大胆なこともおっしゃる。 でも、それはあえて議論を活性化させることを考えておられたのだと思います。ちょっとご病気という話はあったかもしれませんが、いつもお元気でした。ですから、亡くなられるということ自体が私の中ではまだ十分に受け入れられていないところがあります。 私の最新刊『政治改革再考』(新潮社、2020年)の中でも触れましたが、山崎先生、そして高坂正堯先生は戦後の日本を基本的に肯定的に評価しながら、戦前に回帰することを拒絶し、しかし左派的なやり方で日本をよくしようとすることに対しては懐疑的であるという点で、「戦後日本の非常に真ん中の考え方」を持っておられたと思います。 でも、そういう人たちのグループを適切に表現するラベルがないと感じていました。 「右派」という言葉は強く、すごくネガティブなイメージを持っている人も多いので躊躇があったのですが、あえて「近代主義右派」という言葉を使いました。 いわゆる近代主義、つまり日本の社会におけるものの考え方や人間関係はもっと合理化できるし、もっとさばさばしてていいんだ、都会的でいいということです。 そういう意味では、「都会の人」というのも山崎先生に対して持った強い印象のひとつです。ベタベタとした付き合いはしない。しかし、それは温かさがないとか、無関心ということとは違う。 山崎先生が考えておられて、これまでなされてきたことについては、『政治改革再考』を書く中で何度か考えたことですね。 ===== 細谷雄一・慶応義塾大学教授 国際政治チャンネル 先生の明るさの根源 ■細谷 やはり山崎先生はファナティシズム(狂信)に非常に嫌悪感を持っていらっしゃった。高坂先生はもっとそれが強かったと思うのですが、人間が理性を忘れて暴走したときの怖さ、あの戦争を子供の頃に経験した世代です。 つまり丸山眞男のように論理としてあの戦争を理解しようとするのではなくて、大の大人が狂信的にある方向に突進したときの怖さというものを非常に早熟なあの二人は子供心に感じていた。特に山崎先生は満州国で育っていますからね。 ですから、それに対抗する、ある意味では予防注射として近代主義的な論理、強靱な論理、理性がないといけない。だけどその一方では、大阪に文化をつくるとか、あるいは、サントリー文化財団で地域振興ということを非常に重視するという土着化の視点も持っておられた。 つまり、欧米の「近代主義」をそのままの形で日本に当てはめるのではなくて、日本の歴史、文化のコンテクストの中でどうやって日本の中に埋め込めるかということです。 これはアメリカの社会科学の最先端理論をそのまま日本に当てはめても、我々の生活や社会、そして政治をよくしていくことにどれほど有効かわからないということと同じですね。 今回の待鳥さんの新刊の意図も、ポリティカルサイエンスのスタイルをかなり土台にしながらも、政治学はそこにとどまるものではなくて、その意義を認めながらも、土着化、つまりどうやって日本のコンテクストの中に埋め込んでよりよい政治をつくる上でのヒントを提供できるかということを書かれたのではないでしょうか。 山崎先生が亡くなられる前にまったく意図せずして山崎先生へのオマージュを書き、また文体の影響も受けているのではないですか? ■待鳥 私は文体をまねできるほど熱心な読者では全然なかったのですが、『政治改革再考』は、いわゆるポリティカルサイエンス的であると正面切って言うにはかなり冒険している本です。今のポリティカルサイエンスの中でこういうテーマを扱えるかといえば、論証が厳密でなければいけないなど、近年は基準が非常に厳しい。 もちろん、トップジャーナルの論文もとても大事なことだと思っていますし、それをやるということ自体には価値があります。それによって解明されたり、発展していく領域があるからです。 ただし、みんながそれだけをやればいいかと言われたら、それはちょっと違うと思っています。そのことによってこぼれ落ちていく要素があるからです。政治学が何のためにあるのかと考えたときに、民主主義社会の中に生きている人たちにとって何か腑に落ちるものがないといけないと思っています。 ですから、政治学、ポリティカルサイエンスの純度の高いものはもっと私よりも優秀な人、若い人がやれると思っているので、こういう書き方にしました。 もし、そういう書き方がにじみ出ているのだとしたら、山崎先生をはじめ「そういうふうにやっていいよ」と励ましてくださった方々の影響はあると思います。 ===== 池内恵・東京大学教授 国際政治チャンネル ■池内 今回ご著書で言及された「近代主義右派」ですが、日本近代の、ある種、明るい部分に根ざしているわけですよね。 『政治改革再考』の39ページに「幕末開国期あるいは少なくとも戦後初期から連綿と続く、日本の社会に生きる人々の行動と、その集積としての日本の政治行政や世界経済のあり方を、より主体的かつ合理的なものにすることを望ましいとする考え方」と書かれていますね。 山崎先生は、満州から引き揚げた経験があるという話が先ほどありましたが、ある種、個人の自律性、あるいはその前提となる尊厳が本当に奪われる状態を原体験として持っているわけです。しかし、戦後ずっと、いろいろなやり方を経て、やっとここまで来たということに関しては、明らかに評価しています。 私たちが見ていた山崎先生は人生の最後の10年、20年であって、それは老いとか病とかで個人としての先生ご自身は大変だった時期だと思うんですけど、しかし、自らが生きてきた時代というものに関して、肯定的な感情が非常にあったと思います。どん底の状態から日本はよくここまでやってきた、と。 そういうところでの山崎先生の持つ明るさと、我々が知っている時期の山崎先生の明るさはつながっていたと思うのです。 これからの「社交」 ■細谷 かつては自分が将来書くことになるとか、ましてや編集委員をさせていただくとは思っていなかったのですが、ちょうど我々が大学生だった90年代、『アステイオン』ってちょっと香りが違う雑誌で、恐れ多いというか、貴族的で上流階級の洗練された文化人が集うサロン的な空気があって、ちょっと近寄りがたいような空気がありましたよね。 戦後日本でどんなに学生闘争やイデオロギー対立があろうとも、権力とも距離を置いた知的な空間をずっと大切にして、それをサントリー文化財団が支えていた。 これはイギリスの「ジェントルマンズ・クラブ」とか、フランスの「サロン」などと同じで、会員制でかなり限定された人しか入れない。これは今や絶滅種なんじゃないかと思うのですが……。 今では海外のトップジャーナルに書くことが唯一の研究者の目的とされ、学問の専門化が進み、専門以外のことをやることに対する敵意さえも見られます。 今、山崎先生みたいな人が僕とか待鳥さんとか池内さんのゼミに3年生で入ってきたら、果たしてそういう人材を育てられるのかといえば、「それは学問じゃないよ」とか言って軌道修正させてしまうかもしれない。 専門分野以外の研究が許されず、絶滅しつつある時代に山崎先生が人と人をつないで大切に守り、蛮勇、つまり専門を越えて発言したり、書くことを励ましてくれた。もちろん、そこで何をやってもいいわけではなくて、品格やマナーにはこだわらなくてはならないのですが……。 「知識人が亡くなるというのは時代が変わる」と「中央公論」元編集長の粕谷一希さんもおっしゃっていましたが、山崎先生が亡くなられたということで、時代が変わるのではないかと僕は思っています。 そういった専門を越えて人と人をつなげて、柔らかい形での教養、知性というものを洗練した形で大切にする文化が学術の世界ではますます疎外され、ときには憎しみの対象となって中傷され、そのような麗しい伝統も消え去りつつあるのかなと。 池内さん、どうですか。こういったものは残るんですかね。なくなるんですかね? ===== ■池内 私は残ると思いますよ。残るのだけど、まさに細谷さんがおっしゃる「敵意や憎しみの対象」になりかねないというのはあると思います。 たとえばツイッターなどSNSのような空間で、不用意に山崎先生の話をすると、全然想像もしないところから足を引っかけられたり、石を投げられたりするかもしれない。SNSは確かに便利ですし、それも「社交」かもしれませんが、ある種の全然違うタイプの社交空間であり、山崎先生はそこには合わないということです。 でも、SNSにはないものが何であるかということが逆にわかってくるのではないでしょうか。 先生が人生を締めくくる形で晩年、『舞台をまわす、舞台がまわる』(中央公論新社、2017年)というオーラルヒストリーの本を出されましたが、山崎先生がされたような、まさに「舞台回し」ですね。舞台の上、その中で踊る空間が必要だということを、今の新しいメディア環境の中でみんなが再認識して、また新たにつくっていくことになるのだと思います。 『別冊アステイオン それぞれの山崎正和』 公益財団法人サントリー文化財団 アステイオン編集委員会 編 CCCメディアハウス (※画像をクリックするとアマゾンに飛びます) 池内 恵(Satoshi Ikeuchi) 1973年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。国際日本文化研究センター准教授、アレクサンドリア大学(エジプト)客員教授などを経て、東京大学先端科学技術研究センター教授。専門はアラブ研究。著書に、『イスラーム世界の論じ方』(中央公論新社、サントリー学芸賞)、『[中東大混迷を解く]サイクス= ピコ協定 百年の呪縛』『[中東大混迷を解く]シーア派とスンニ派』(ともに新潮社)、『新しい地政学』(共著、東洋経済新報社)など多数。 細谷雄一(Yuichi Hosoya) 1971年生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程修了。博士(法学)。アジア・パシフィック・イニシアティブ研究主幹。専門は国際政治学・外交史。北海道大学法学部専任講師、敬愛大学国際学部専任講師を経て、慶應義塾大学法学部教授。著書に『戦後国際秩序とイギリス外交』(創文社、サントリー学芸賞)、『倫理的な戦争』(慶應義塾大学出版会)、『戦後史の解放(I・II)』(新潮社)、『新しい地政学』(編著、東洋経済新報社)など多数。 待鳥聡史(Satoshi Machidori) 1971年生まれ。京都大学大学院法学研究科博士課程退学。博士(法学)。大阪大学大学院法学研究科助教授、京都大学大学院法学研究科助教授を経て、京都大学大学院法学研究科教授。専門は比較政治・アメリカ政治。著書に『財政再建と民主主義』(有斐閣)、『首相政治の制度分析』(千倉書房、サントリー学芸賞)、『政治改革再考』(新潮社)など多数。