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<リベラルアーツ教育で名高い国際基督教大学(ICU)の必須教養科目が待望の書籍化。その一部を3回にわたって掲載する> 日本のリベラルアーツ教育を牽引する国際基督教大学(ICU)で、必須教養科目として採択されているのが「キリスト教概論」だ。このたび、『ICU式「神学的」人生講義 この理不尽な世界で「なぜ」と問う』(CCCメディアハウス)として書籍になった。 魯恩碩(ロ・ウンソク)教授のパッション溢れる「キリスト教概論」は、信仰を勧めるための授業ではない。競争社会で他人を出し抜くことなく生きることはできるのか? 正当な暴力や戦争は存在するのか? そもそも、なぜ、すべての人間は等しく尊厳を持つのか? といった人間の根源的な、そして容易には答えが見つからないさまざまな「問い」について、神学を一つの柱に据えながら、学生たちと考え抜く授業である。 答えが見つからない問いに接したとき、どう対峙するか? そのための力を身につけることは、まさにリベラルアーツ教育の本質だ。キリスト教は日本ではマイノリティの宗教だから、その影響力をイメージしにくいかもしれない。しかし、世界人口の3割以上の人たちが信仰し、共有している価値観や世界観を知ることが、他者理解に役立ちそうなのは理解できるだろう。 そして、もっと言えば、神学の教養を身につけることは、科学技術の発展、産業革命、リベラルな民主主義といった、「私たちが生きるこの世界」を築いている思想的土台を理解することにつながっている。 本連載では、3回にわたって、『この理不尽な世界で「なぜ」と問う』の一部を抜粋し、紹介する。第1回は、『第十講 この理不尽な世界で「なぜ」と問う:人間の有限性と「祈り」』より、人はなぜ祈るのかについての対話をお届けする。 ■人は問う生き物――動物は祈らない 教授: ところで、神に祈ることや、神を信じることは、かなり不思議なことだと思う人も多いですよね。しかし、信じるということはそんなに不可思議な感覚でしょうか。 私たちは必ずしも、学問的に証明されていることにだけに基づいて生きているわけではありません。証拠のないこと、証明できないことも信じながら生きています。たとえば、大丈夫だと信じて飛行機に乗ります。この人ならと相手を信じて結婚します。 ウィリアム・ジェームズ(William James:1842 -1910)が『信ずる意志』で言ったように「人間は、人生で本物の選択に直面する際に、十分な証拠なしに何かを信じざるを得ない生き物」なのではないでしょうか。 楊: ウィリアム・ジェームズは、人は十分な証拠が揃うまで待つことができない生物だと考えているようですね。 教授: その通りですね。人は永遠に生きられないので、十分な証拠が揃うまで待つことはできません。限られた情報量のなかで、選択の決断を下さなければならないことが多くある、ということです。 これは宗教にも通じています。宗教の土台には、「人間の質問」があります。どんな有神論でも無神論でも、その土台には、「人間の質問」があります。 著者:魯 恩碩 出版社:CCCメディアハウス (※画像をクリックするとアマゾンに飛びます) ===== 人間は質問する。 この事実が、人が他の動物と異なるところです。「ホモ・サピエンス(Homo Sapiens:賢い人)」ではなく、「ホモ・クァレンス(Homo Quaerens:尋ねる人)」ですね。神は祈りません。なぜなら全知だからです。動物は祈りません。なぜなら自分の存在意義について疑問を持たないからです。けれども人間は、自分の存在の根源について、その意味について問い続けます。 なにが私の存在の根源なのか。 なにが私の存在の意味なのか。 自らの存在、その根源、意味について、疑問を持ち、問い続ける。そういうユニークな生き物が人間です。 『パンセ』(Pensées)を書いたブレーズ・パスカル(Blaise Pascal:1623 -1662)は、人間の偉大さがどこにあるかということについて、「人間の偉大さは自分の惨めさを知る事。/人間の偉大さは自分の無知を知る事。/人間の偉大さは自分の罪深さを知る事」と言いました。 人は何でも知っているから偉いのではなく、逆に無知であることを自覚しているから偉いのだ。人間はきれいで道徳的に素晴らしいから偉い、のではなく、むしろ惨めで罪深いということを自覚しているからこそ偉いのだ、と。 これは言い換えると、「人間の偉大さは、自分の有限性を知っていることにある」と言えるのではないでしょうか。惨めさ、無知さ、罪深さ、といったものは、どれも人間の有限性を表しています。つまり、パスカルの言葉は「人間は有限な存在であることを知っているからこそ偉い」と言い換えられます。 では、なぜ人間がある種の弱さ、ネガティブな点である自らの有限性に気づくことは偉いのでしょうか。その理由は、そこにこそ、その有限性を乗り越える可能性が開かれているからです。 たとえば先ほど述べたように、問い続けるという行為も、その一つですね。そう考えると、祈りとは、まさに「自らの有限性の自覚」に由来するものである、と言えそうです。 自分の限界を知る存在である。 自分の限界を知っている。 だから人間は祈る。 私はそう思います。祈る生き物は人間しかない。「ホモ・オーランス(Homo Orans:祈る人)」です。祈りは人を人たらしめる本質の一つなのではないでしょうか。 つまり、祈りというのは、なにも、信仰者だけがするものではないのです。信仰のあるなしにかかわらず、自分の限界を知る者は祈りたいという気持ちになる。ですから、この世界で「祈り」という言葉がない言語はないそうです。(略) ===== ■正直な気持ちを受け止めるキリスト教 教授: 旧約聖書に詩編という書物があります。読むと、詩編を書いた人々がいかに正直に、驚くほど正直に、自分の気持ちを神に打ち明けているのかがよくわかります。宗教改革者カルヴァンは詩編を「魂の解剖図」と呼んだほどです。もちろん、詩編113-118編や、146-150編のように、「ハレルヤ」というキリスト教の賛美の言葉がたくさん出てくる祈りも多数あります。しかし、もう一方では詩編22編のような祈りもあります。 22編は、イエス・キリストが十字架の上で死ぬ直前に叫んだ祈りです。 わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。 これは、願いでも感謝でもありませんよね。どちらかといえば、エレミヤの告白〔※編集部注:旧約聖書の「エレミヤ書」20章7-18節。「主よ、あなたがわたしを惑わし」にはじまり、苦しい人生の意味について、エレミヤは神に、「なぜ」「どうして」と問い続ける〕のような祈りです。叫びであり、怒りであり、悲しみであり、格闘であり、苦しみである。ありのままの表現です。 キリスト教ではこのような率直な祈りを神への不敬(ふけい)だと批難しません。そうではなく、神に真正面から誠実にぶつかる勇気と捉え、信仰の表現として尊重します。(略) ■どん底で綴られた希望の詩――ボンヘッファーの祈り 田村: 私は、ボンヘッファーの言葉を思い出しました。 「われわれは――《たとえ神がいなくとも》(etsi deus non daretur)――この世の中で生きなければならない。このことを認識することなしに誠実であることはできない。そして、まさにこのことを、われわれは――神のみ前で認識する! 神ご自身が、われわれを強いて、この認識にいたらせたもう」 教授: 第五講にも出てきたディートリヒ・ボンヘッファーはナチズムに抵抗して殉教したドイツの牧師であり、神学者ですね。せっかくボンヘッファーの名前が出ましたので、彼がつくった最後の讃美歌の歌詞を紹介しましょう。ドイツの讃美歌集の637番に、信仰・愛・希望の曲として収録されています。第二次世界大戦終結後、この詩には旋律がつけられ、現在では世界各地で歌いつがれています。私はこの詩が、ボンヘッファーの信仰と神学が結実した「祈り」に他ならないと思っています。 ===== 善き御力持つ者らに 善き御力持つ者らにかかわりなく静かに囲まれ 護られ、こよなく慰められ わたしはこの日々をあなた方とともに生き ともに新しい年へと入ってゆく いまなお古い年は私たちの心を苦しめ いまわしい日々が私たちに重荷を負わせようとする ああ、主よ、私たちの愕然たる魂を救いたまえ そのためにあなたは私たちをお造りになったのです あなたの差しだされるのが重く苦い苦悩の なみなみとつがれた盃であろうとも 私たちはあなたの好ましい御手よりそれを 震えることなく感謝にみちて受けましょう でも今一度あなたが私たちにこの世界と その太陽の輝きの悦びを贈ってくださるなら 私たちは過ぎ去ったものを思い起こしつつ 人生を安んじてあなたに委ねます 私たちの暗闇にもたらされた蝋燭の火を 今日は暖かく明るくともしてください なろうことなら私たちをまた一つに導いてください 知っています、あなたの光の夜輝くことを 深い静寂が私たちのまわりに広がるとき 眼に見えることなく私たちをつつむ世界の かの澄んだ響きに私たちは耳を傾けます あなたの子らすべての気高い賛美の歌声に 善き御力持つ者らにこよなく庇護され 何が来ようと心安んじて私たちは待とう 夜も朝も私たちのかたえに神はつねにある そしてまちがいなくどの新しい日にも (横手多佳子「殉教者ディートリヒ・ボンヘッファーにおける讃美歌と詩篇」) ボンヘッファーはフロッセンビュルク強制収容所に収容されていました。人間の目では希望のかけらも見えない空っぽの暗闇に、自分の紡ぐ言葉が粉々に崩れてしまうような不安と絶望を味わっていたことでしょう。 しかし、「祈り」には力があるのです。 祈るとき、失意で曇ったボンヘッファーの目の前には、再現されたのではないかと思うのです。神の栄光と支配のもとで、当たり前のように思っていた毎日の生活、そして、世界が再び生き生きと響き合う光景が。いつ処刑されるかもわからないどん底にあったボンヘッファー。一九四五年四月九日に、とうとう処刑されてしまった彼が、これだけ希望と光に満ちた詩を書いた。そのことは、「祈り」が持つ力を雄弁に物語っているのではないでしょうか。 彼の祈りをもって今日の授業はここで終わりにしましょう。 それではまた、次の講義で会いましょう。