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<かつて無生物につけることのなかった「たち」が多用されるようになった。とはいえ、英語のような意味での複数形ではない> 次の俳句は松尾芭蕉の作品の中でもよく知られているが、この蛙(かわず/カエル)は、単数だろうか? それとも複数だろうか? 古池や蛙飛び込む水の音 ほとんどの人は単数だと答えるのではないだろうか。この句にはおびただしい数の翻訳があるが、ドイツ語訳を含め、ほとんどがカエルを単数にしている。たとえば、ドナルド・キーンは次のように訳している。 The ancient pond / A frog leaps in / The sound of the water. だが、次に挙げるアメリカの詩人シッド・コーマンのように、冠詞のない「裸」の名詞で訳されているものもいくつかある。 old pond/frog leaping/splash. わたしもかつては蛙を単数だと思っていたが、今ではいささか感想が異なる。蛙が飛び込み、それが1匹なのか2匹なのか3匹なのかはどうでもいい、そんな気がするのだ。実際、ほとんどの日本語話者は、それほど数にはこだわっていないのではないだろうか。 そう考えると、キーン訳が単数(a frog)とし、複数ではないとはっきり意識しているに対して、コーマン訳は個体としてよりも総体として蛙を思い浮かべている点では、私たち日本語話者の感覚に近い。 日本人も単数形と複数形を区別するようになった? 近年、目に見えてよく使われるようになった日本語は「たち」だ。確か雑誌「クロワッサン」の記事だと記憶しているが、「わたしの愛する椅子たち」という見出しを見て、目が点になった。もう30年近くも前のことだが、当時は衝撃的だった。 「たち」は、「人たち」「学生たち」のように人間や一部の動物に使われてはいたが、かつては無生物につけることはなかった。だが、現在では無生物に「たち」がついた表現を非常によく見かける。 たとえば、村上春樹の最新刊のタイトルは『古くて素敵なクラシック・レコードたち』(文藝春秋)であるし、数年前に東京・渋谷で行われた展覧会は「世にも奇妙な絵画たち」であったなど、枚挙にいとまがない。 「たち」が多用されるようになったのは、英語の影響だということは容易に想像がつく。しかし、わたしたちが英語のように単数か複数かを区別するようになったかと言えば、そうではないだろう。 例えば、息子から「今日は後輩と飲んでくる」と言われた母は、後輩の数を尋ねないだろう。だが、食事に呼びたいと言われれば、人数を尋ねるだろう。つまり、単数か複数かは必要があるときにはじめて意識に上るのだ。 ===== ものを総体として眺める日本語とは違い、英語のように単数と複数を区別するということは「個別化」を意味する。「たち」という複数形が使われるようになったのは、それまで総体としていたものを、英語の学習を通じて「個別化」して眺めるようになったからではないだろうか。 とはいえ、現代の日本語に急増している「たち」は、決して英語のような意味での複数形ではない。そこで、次の文を読んでいただきたい。 「山で石を拾ってきた。机の上に置かれた石たちは、夕日を浴びて光っている」 いかがだろうか。「石」よりも「石たち」に心理的な距離の近さを感じないだろうか。このように、「たち」は「擬人化」や「親しみ」の表現として機能しているのだ。 ……そんなことを考えていた時、わたしの目はある記事に釘づけになった。アメリカ生まれの作家リービ英雄のインタビューである。名詞の単数複数に関する日本人の感覚をこれほど鮮やかに表現した例をわたしは他に知らない。 リービは安部公房の芝居を英訳したことがある。戯曲に出てくる象が1頭なのか群れなのか、どうしても分からなかった。(……)直接、安部に聞いた。作家は「われわれ日本人には分からない。リービ君が決めなさい」と答えた。(2019年6月7日朝日新聞夕刊) その数十年後。リービのデビュー作『星条旗の聞こえない部屋』が英訳されることになった。 「翻訳者のアメリカ青年が『領事館のこの警備員は、単数ですか複数ですか』と問うた。ところが、わたしには分からなかったのです。(……)このとき、安部さんが言った『われわれ日本人』の、われわれの中に入れた気がした」(同上) [筆者] 平野卿子 翻訳家。お茶の水女子大学卒業後、ドイツ・テュービンゲン大学留学。訳書に『敏感すぎるあなたへ――緊張、不安、パニックは自分で断ち切れる』、『落ち込みやすいあなたへ――「うつ」も「燃え尽き症候群」も自分で断ち切れる』(ともにCCCメディアハウス)、『ネオナチの少女』(筑摩書房)、『キャプテン・ブルーベアの13と1/2の人生』(河出書房新社、2006年レッシング・ドイツ連邦共和国翻訳賞受賞)など多数。著書に『肌断食――スキンケア、やめました』(河出書房新社)がある。